同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(31) —

野澤 睦雄


「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(ペテロⅠ 1:8-9)

3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎

    - 愛の顕れ -

2) イエス・キリストへの愛
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ 15:9)
 新生した人の愛という心の機能は、イエス・キリストへの愛で顕されます。
 冒頭のみことばのとおりたましいの救いを得、新生したひとは、イエス・キリストを愛します。
「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。」(ヨハネ 8:42)
神の子となったひとは、イエス・キリストを愛します。
逆に、もしイエス・キリストへの愛がなかったら、救われた神の子ではない証拠になります。

・イエス・キリストへの愛はイエスの戒めを守ることによって明らかにされます。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」・・・「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ 14:21,23)
 イエス・キリストを愛するひとは、イエスの戒めを守ります。その戒めは、
「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」
(ヨハネ 15:17)であって、兄弟を愛するというこころの愛の機能と関係してきます。  イエス・キリストに対する愛のために戒めを守ることは、それは戒めだから律法だからと仕方なく、強制され守るのではなく、イエス・キリストに対する愛を動機として自発的に守るのです。

・イエス・キリストへの愛は、イエスの弟子となってイエスについて行くことによって明らかにされます。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ 14:27)
「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」」(ルカ 9:23)

・イエス・キリストへの愛は、小さいものへの愛によって明らかにされます。
「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ 25:34-41)

(仙台聖泉キリスト教会員)