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― Q&Aルーム ―

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-150 —
   -- 2023年11月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅰ 20章
 先月はバアルの預言者たちに勝利したエリヤだったが、イゼベルがその命を狙っていることを聞くと、恐れて逃げてしまったところを取り上げた。彼はバアルの預言者たちとの戦いの中で圧倒的な勝利を収めたにもかかわらず、イゼベル一人を恐れ逃げた。しかし、それもバアルの預言者たちと戦ったのは彼ではなく、彼の背後におられる神の御力によるものだったからこそである。さてそこから引き続きアハブの話が続いている。今回アラムの王ベン・ハダデが登場する。聖書は歴史的な順番で書かれているときもあれば、単体で出来事が記されている場合もあり、正確にいつ行われたのかはわからない場合が多い。ここで起こった出来事も詳細までははっきりしないが、イスラエルの歴史の中でアハブが王をしていた時代であったこと、また、その時代北のアラムという相手は手ごわかったということがわかる。だからこそ、この国に対抗していく手として、フェニキアから妃であるイゼベルを迎え入れたのだ。その同盟によって力を得たのである。対するベン・ハダデという人物は、32人の王を引き連れてやってきた。その王たちとの関係がどのようなものであったのかは、はっきりとわからない。同盟だったのか、アラムの中で細かく分けられて国と呼ばれていたのか、しかし、それらを束ねていたのが、ベン・ハダデであった。今ほど国というものの基準があったわけでも、共通の認識があったわけでもない。いろいろな形で人々が集まり、生活し、自分たちの町を築き、平安を極めていたのである。イスラエルもダビデやソロモンの時代は北王国、南王国と別れることなく、国が成り立っていた。しかし、そこに様々な問題が発生し、二つに分かたれることになる。実際その時代国は分裂したり、合併したりを繰り返していた。何か大きな勢力に立ち向かうとなれば、小さな国は集まって一つの国になった。また、大きい国であるがゆえに統率が取れなくなれば、分裂した。それによって国が成り立っていたのである。今回はイスラエルが標的になっている。ベン・ハダデはアハブに対して「銀や金、妻や子どもの美しいもの」を求めた。まだ戦ってもいないのにもかかわらず、すでに勝利は決まっているとばかりに、彼はイスラエルに脅迫まがいの要求をしているのだ。イスラエルは降伏するだろうというのが、ベン・ハダデ側の予想だった。それは期待というよりも、イスラエルの実態に基づいたものだった。というのは、その当時のイスラエルは弱体化し、防備というものが不足していた。その割には彼らの生活は祝福され、フェニキアとの貿易によって多くの富を得ていたのだ。だからこそ、アラムの標的となった。戦いが始められる前から勝敗は決しているかのように誰もが思っていた。アハブもそう考えていたが、長老たちの言葉によって戦いが起こってくる。併せてここに神の預言者が登場し、神がイスラエルを助けることを告げた。私たちにとってアハブは神を信じない悪い王であるという考えがあるゆえに、このような神の憐れみを理解できない。しかし、神を私たちの尺度に当てはめて考えてはいけない。神は憐れもうと思われるものに対し憐れみを行われる。もちろん神の中に基準がないわけではないだろう。しかし、正しくないから憐れまないかというとそうではない。悪いものに対しても神は悔い改めを待ち望み、助けの御手を伸ばされるのである。アハブに対して神は常に悔い改めを求めている姿がある。しかし、アハブはその神の愛に対して大変不遜な態度をとっている。神は不遜なものに怒らないわけではないが、限りない憐れみをもって、忍耐しておられるのである。それは同時に神が私たちをどのように扱われるのかというのを表している。私たちは「アハブと比べて、私はましだ」と思ってしまいやすい。「もちろん私は完ぺきではないが、あの人よりはできるから、神の助けをいただけるはずだ」そのような考え方は私たちの信じている神信仰とは異なる。聖書はこのところをもって神ご自身がその主権をもってこの世をご支配されていることを示そうとしている。信仰者として召された私たちはそれを本当の意味で理解し、信じ、それによって信仰生活を形作っていく必要がある。ただ、知識だけで「神がこの世をご支配されている」ということを理解しているのでは意味がないのだ。後半に書かれていることだが、年が明けてもう一度ベン・ハダデが攻めてくる。その所でも預言者が立ち、イスラエルの勝利を示している。ベン・ハダデ側は一度負けたにもかかわらずもう一度戦いに赴いたのは、「イスラエルの神は山の神で、平地なら私たちの神の力が強い」というなんとも偏った主観の強い意見にもかかわらず、それを信用したゆえであった。それによってアラムは再度イスラエルに戦いを挑み、敗れることになる。神は「わたしが主であることを知るために」と語ってこのことを行われた。それはイスラエルに、また敵である者たちに対して本来の主の姿と、その力、主権がその手にのみあることを示されたのである。
こののち、約束通りイスラエルは勝利を収めるが、ベン・ハダデがあたかも遜ったような姿でアハブの軍門に下るというような姿を見せると、アハブは彼をさっさと許してしまった。ここに何があらわされているのだろうか。それは、神の主権の中でともに生きているのか、それとも、神を都合よく扱って、自分の力を誇示して生きているかの違いである。彼は結局神の力ですべてのことが行われているにもかかわらず、自分の力でこのことが行われたとおごり高ぶり、その故に、ベン・ハダデへの対処を神に対し何の伺いも立てることなく勝手に決めてしまった。こののち預言者は自らを傷つけてもらったうえで、その使命を全うするため、王に対してその罪を示す。まるでダビデと預言者ナタンのようなやり取りである。しかし、その示された罪に対する仕方は全く異なった。自らの罪を認め、悔い改めたダビデと異なり、アハブはただ怒るだけだった。彼にとってその言葉は受け入れられるものではなかったのだ。神の主権のもとに私たちが生きていると語っていても、自らをその召しと働きの前に悔い改め続けながら、神のご意思に沿って生きることができるか、それとも、自分のしたいように生き、神のご意思に立ち向かっていきてしまうのか。自らの信仰生活をもう一度考えていただきたい。日々の中で注意していき、アハブのように神の許しを受けないまま滅んでしまうのではなく、神の憐れみを受けとるものとさせていただきたく願う。

Q:先日礼拝の中で悪魔がイエス・キリストを試みたが、最後の問いかけの中で、まるで悪魔がこの世を支配しているかのようにふるまう言葉があり、これこそ私たちに対する誘惑の種であるということが語られていました。悪魔の支配と誘惑の種をどのように結び付ければよいのでしょうか。

A:悪魔はまるで自分の手の中にこの世で起こることや栄華つまりはその支配があるようにふるまっている。しかし、それは事実ではない。あたかも視線をそらすように悪魔は「私を拝むならこれを全部あなたに差し上げましょう」という方に重点を置いて誘惑しているように思われるが、そうではなく、実際は「これを全部あなたに差し上げましょう」という言葉のなかに、悪魔にこの世のものを誰かに与える権利、力があるのだというようにとらえられることに誘惑がある。実際には悪魔にこの権利はない。すべてこの世で起こることは神の主権のもとに行われている。しかし、悪魔はまるで自分がこの世を支配しているように語るのだ。日々の中でそのように私たちは誘惑を受ける。だからこそ、神を全き真実な方であると信じ、悔い改めて罪から解放されて、そのうえで信仰生活に歩むとき、悪魔の誘惑から解放されるのである。それができないとまるで、神は私たちを救われないとか、悪魔がこの世を支配しているから罪が蔓延しているのだとか、どうせ信仰をもって生きていたってどうにもならないというように責任転嫁をして、自分の中にある悪しきや、愚かしさ、罪を放置してしまうのである。しかし、そのような生き方を誰が一番見るだろうか。それは、身近な愛する家族である。私たちは隣人を愛するということに重点を置いた形で信仰を全うしようとしている。誰かを愛して、信仰を受け継ごうと思うものはその所にあって、自分を変えようとしていくことができる。しかし、そうではなく結局愛が枯渇していると言葉ではどれだけ信仰を語ろうとも、営みや行いが受け入れがたいものとなる。私たちはそのような責任転嫁をしてしまうような生き方、開き直った生き方をせずに、信仰を全うしていくことができるかということが問われているのである。私たちの生き方は福音のあるものでなければならない。サタンの影響を受けた生き方に福音はない。福音に生きられないという事実はそのような形で見えてくるのだ。もちろん主の救いを知らない人、信じていない人の前には福音である。ただ、同時に信じている者たちの前にあっても、これらは福音なのである。それによって神に立ち返り、悔い改めるということが起こってくるのだ。
サタンは最初の二つの問いかけをもってして完全にイエス・キリストの前に敗北している。にもかかわらず、この最後の問いかけを通して、自らの存在、力を欺いて示そうとしたのだ。このようなところは聖書を読んである程度知っている人が躓きやすい。サタンの支配があるようにこの世を見てしまうのである。サタンが、もともと位の高いみ使いで、神を裏切り、神になろうとしたゆえにみ使いではなくなってしまったが、その地位が高かったということは事実である。とはいえ、この世を支配する権利はない。それをお持ちになっているのは神ご自身だけなのである。

Q:ピリピ人への手紙 2章17節「たとい私が、あなた方の信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます」という聖言が目に留まったのですが、この聖言について教えていただきたいのですが。

A:パウロはピリピの人々のために自らを神に生贄としてささげるということを「注ぎの供え物」とあらわしている。イエス・キリストの十字架の贖いと同じように彼らの信仰をいかすことができるならそこに自分を投じていこうとする彼の信仰の現れである。実際にはそれによって彼から何らかのものが取り去られようとしてもピリピの教会を愛していたのだ。ピリピの教会はパウロを愛し、彼のために多くの献金などの支援を行っていた教会である。パウロとともに生きた教会である。イエス・キリストの十字架が贖いの器となっていることと同じように、そのようなものがお互いの間でささげられ続ける関係であるということが愛し、愛される関係なのである。これこそ神の前に喜ばれる捧げものであるとパウロは語る。神はそのような捧げものこそ喜ばれるとパウロはピリピの教会に願い、語ったのである。互いのために自分をも犠牲にするような愛をなしていくことつまり、「汝のごとくその隣人を愛せよ」や「人がその友のためにそのいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません」の聖言の実現を願ったのだ。ピリピの教会はそれが実現可能な教会だったのだ。私たちの教会もぜひともこのところを目指させていただきたい。どこまで福音の中に生き、自分をその所にささげていくことができるかというのが大切な問題である。ただそれはイエス・キリストご自身がまず私たちの罪の贖いのためにそのいのちをささげてくださったからであり、それが私たちを活かし続けるものであるからこそ、私たちもそのことを喜び、感謝として、隣人に仕えあっていけるのだ。この救いに対する感謝や喜びのこころがなくして私たちは他者のために自分をささげていくことは難しい。しかし、神が私たちを愛され、イエス・キリストがご自身をささげてくださったことを感謝するときに、神とイエス・キリストが愛された人々のいのちを救いへと導いていきたいと願うのである。その互いの関係性の中で、補い合い、支えあい、信仰を高めあいながら、育つ関係であらせていただきたいのだ。

Q:列王記Ⅱ5章でナアマンのことが取り上げられていて、彼が癒された際にエリシャにお礼をしたいと申し出ましたが、エリシャは受け取りませんでした。しかし、それに対してゲハジが「もったいない」と手を付けてしまったことが語られていました。以前語られた中に、神の報いと人の報いを二重取りしてはならないという話があったことを思い出したのですが、そのようなとらえ方でよろしいでしょうか。

A:ゲハジの問題は大変とらえることが難しい。ゲハジが何を動機として行ったかということはわからない。ただエリシャは今この時に受け取るべきではないと思った。神の主権のもと神の大いなる憐れみによって行われたことであった。彼の女主人に仕えていた僕が真の預言者ならばナアマンを癒せるということを語り、彼の癒しがなされた。しかし、これは預言者という存在の力ではなく、その背後におられるイスラエルの神にこそ力があることが示されるべきであり、神がその主権のもとナアマンを癒したのだ。だからこそ、エリシャは自分がそのお礼を受け取らなかった。報酬を受けるということを彼が自分の力で行ったこととしてしまわないようにとしたからなのだろうと考えられる。もちろんこれを取り上げて報酬を受け取るなというわけではない。私も神に仕える者であり様々な形で供え物から報酬を受けている。すべてがそうだというわけではないが、この時エリシャは受け取るべきではないと考えたのである。それがキーポイントであった。預言者と神、神の基準がそこに確かに存在していた。にもかかわらずゲハジは横取りのようにエリシャに黙って行った。それこそが裁きの問題として取り上げられたのだ。受けてはならないものを彼は受けてしまった。ゲハジの中には様々な思いが以前からあったのだろう。もしかしたら、預言者のともがらのことを思い、それを用いようとしたのかもしれない。ただ、この隠して行った行為の中にゲハジが本来は受けてはならないものを受けてしまうということを承知しながら行っているという事実があらわされているのである。また、もし他者を愛するゆえの行為であるなら、隠れてことをせず、エリシャや神に伺いを立てるべきであった。そのような手段を取らず、勝手に行ったことがこのところでは問題として取り上げられたと考えられるだろう。神のものを神のものとして扱うか、それとも自分の感情や、計らいも含めた混ぜ物としてしまうのかが重要な点となる。今回はすぐさまゲハジに対して裁きがなされている。しかし、私たちにはすぐさまそれが行われるということはない。ただ、そのようなことを繰り返す中で、私たちの中にしみこんでいって、自分が評価され喜ばれることや、報酬をもらうことに対象が移っていってしまうのだ。本来の愛は、一面誰かに評価されたりするものではなく、隠れているものかもしれないが、神がそれをご覧になって評価されるものであり、それによって報いられるものなのだ。神の報いにこそ目を留め、そのなかで感謝を覚えていくべきである。人からの報いを受けようとしてしまうと、結局本来の福音にはならない。イエス・キリストの贖いと憐れみ、自らの罪の問題を神が許し、癒し、与えてくださったその事実が私たちの本来の信仰であり、そこにこそ平安が与えられるのである。本当に誰かに哀れみが必要なら、私たちは静かに祈るという時も必要なのである。そうしていくと神が憐れみの御手を伸ばしてくださる。その時にあなたが行って憐れみをかけてあげなさいと示される時もある。またそれによって召された私たちの行動も神が正しくみてくださり、祝福してくださるのだ。だからこそ、上手に取り繕って何かをやるという汚れを負うよりも、正しく神の主権のもとにあって神の器として働いていくことが必要なのである。
子どもは本当に理屈ではなく、その人の表情や、空気のようなものを正直に受け取って生きている。あなたも孫とのかかわりの中で無理にそのような空気を作ろうとしても、つくろったものであればばれてしまう。小さいうちは愛ある関係の中にあっても、だんだん大きくなるにしたがって、罪やその本性を現してくる。それがあまりにも悪いならば、注意し教えていかなければならない。そのようなものをどこで培っていくかは、毎日を大切に生きていけるかにかかっているのだ。小さな働きに見えるが、それは大変大切な人格同士の交わりなのである。だからこそ、人格にかかわれるように悔い改めと遜りをもって日々を生きることが大切なのである。

Q:コロサイ人への手紙4章6節に「あなた方の言葉が・・・塩味の利いたものであるように」と語られていますがの塩味とはどのようなことですか。

A:地の塩世の光にもあるように、塩は味をつけるものであり、腐食を防ぐものである。地の塩とは地の腐敗を防ぎ、味をつけ、良いものへとするために必要なものなのだ。そのような形で塩味をつけることができるかどうか。隣人が生きられるように具現化する力がある必要がある。結婚して伴侶が与えられたとき、互いが結婚して変わったねと言われるようになるような違いが出てくる時がある。それは愛するゆえに互いが信仰の持ち味を出す中で一辺倒だった信仰が一味変わったものへと変化するからである。具体的には伴侶者や友や家族のために足らないところを補い、助けてあげられるようにすることで実現していくことなのだ。私はあなたがいないと生きていけないといわれるような関係を互いにしていくことができたなら、それこそ素晴らしい。そのようなことができるからこそ、互いの間で愛を持ち得るかということが重要になる。私たちは互いの「どこどこが好きだから」ということで相手を愛するのではない。もちろん、そのような感情がある分には問題はないが、それだけでなく重要なのは「神がその人を愛しなさい」と示されたということなのである。教会学校の中である兄弟がお弁当箱を無言で流しに置いたら、奥さんから「何かいうことないの」と言われたという証をしていた。ただ、彼の場合は、決していつもそうではなかったのだろう。急にそれを奥さんから指摘されたからこそ、彼は証で取り上げたのだ。ということはそれ以外日々の中でうまく関わってもらっていたのだろう。そのような補い合える関係が重要なのだ。
子育ては仕事以上に大変である。そのことがわかるということは重要である。仕事でどれだけ優秀でも子育てを放棄してはいけない。それでは、家庭が崩壊してしまう。世の中においても、家庭においても、関わる人に塩気をもたらすものとなってほしいと願う。

Q:隣人を愛するということについて語られていましたが、私たちはどうしても他者を愛しているつもりでも本質は自分のためであるなど、愛することよりもほかのことに関心を持っていきやすいように思います。

A:人間は主観から離れられない。神の御業をとらえるのも主観であるが、主観にとらわれすぎて、その物差しですべてのことを量りやすく、時には神をも自らの物差しで量ってしまうことがあるのだ。特に祈りの中で「○○をしてください。そうしたら私は信じます」というひとがいる。イエス・キリストがサタンの誘惑を受けた際に「神殿の上から飛び降りてみなさい。神が助けてくださる」といわれた言葉に「神を試みてはならない」と語っていたように、私たちの日々の中にあって祈りの中で「こういうことがあったら信じます」というのは結局神を試す行為と同じなのである。信仰とは何かがあったから信じるという奇跡的なものによるのではない。神の恵みは小さな事柄にもいきいきと生きている。それをとらえることができるかが重要なのである。
ご利益宗教は私たちの中に入り込んでくる。そして、なにかがあったときにカーっと燃え上がり、反対にそれがくじけてしまうとさーっと冷めてしまうのである。その本質はご利益をもとに考えているからである。だからこそ神の恵みをどこにとらえていくのかが重要なのだ。隣人の話の中に神の恵みが浮き出ているのにもかかわらず、意外とさっと流してしまっていることがある。また、自分からそのようなものが出ることを信仰的格式が高いと思って自分自身で評価してしまうことがある。とうとうとこっちで語っていても、隣の人は全然違うことを考えているというような信仰者同士の関係性のずれが起こってくる。だからこそそのようなもので、神が何を語っておられるのかを互いにきくことが重要なのである。特に伴侶者との間の中では、生活の中に紛れてしまい、流してしまう可能性がある。だからこそ、お互いが、よく語る場を設け、相手との恵みを分かち合えるようにする必要がある。信仰者同士が、大切なものを分かち合う関係性を豊かに築き上げていく必要があるのだ。

Q:旧約聖書の中で神から示されたことを最後までやり切ることができない者たちの姿に目が留まります。人として世の生活を共にする中で最後までやり切ることができるかというのは示されるところなのだと感じています。私の中で答えは出てないのですが、やはり中途半端で終わらないようにしていく必要があると感じています。

A:私も同じものを持っている。私は当初願ったものや考えた通りになったことはほとんどない。しかし、やり続けていると、「あなたが信じたからこそこうなったよ」という形で神は見せてくださる。それを私はどのような形になるかを楽しみにしている。そして、それを共に見ている者がいる。私は3代目でそれを引き継いだ。初代の純粋さ、立て上げた信仰の継承と教会建設を2代目が引き継いで、打ち立てた。もちろんその中にかけや、反面教師的考えの必要なものもあった。そして私はそれをさらに受け継いだ。世代が続いて培われたこの教会は割と完成された基準を持っているために、自分もそれを受け継ぐことで、信仰生活を保っていくことができたと感じる。 その中には神に仕える姿勢や、生きる中で積み立てたものがどのようになっていくのか、生きているうちに帰ってくるものもあれば、その場では返ってこないが、何十年後か、自分の子どもの代か、孫の代で帰ってくるかもしれない。その先かもしれない。先日賛美感謝会の中で永遠から永遠までというオリジナル賛美が歌われたが、本当に私たちの信仰生活は永遠から永遠までなのである。私の問題だけでなく、その先、またその先へとつづく大切なものなのだ。なお、大切に歩み続けていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)