同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(36) —

野澤 睦雄


「メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、 すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。 私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。 私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行い、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。 私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。主よ。不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです。あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。 私たちは、私たちの神、主の御声に聞き従わず、神がそのしもべである預言者たちによって私たちに下さった律法に従って歩みませんでした。イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが、私たちの上にふりかかりました。私たちが神に罪を犯したからです。 神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを、成就されたのです。エルサレムの上に下ったほどのわざわいは、今まで天下になかったことです。このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているように、私たちの上に下りましたが、私たちは、不義から立ち返り、あなたの真理を悟れるよう、私たちの神、主に、お願いもしませんでした。主はそのわざわいの見張りをしておられ、それを私たちの上に下しました。私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。私たちが、御声に聞き従わなかったからです。しかし今、私たちの神、主よ、あなたは、力強い御手をもって、あなたの民をエジプトの地から連れ出し、今日あるとおり、あなたの名をあげられました。私たちは罪を犯し、悪を行いました。主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、エルサレムとあなたの民が、私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。 私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。 私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。 主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行ってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです。」(ダニエル書 9:1-19)

3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎

 <祈り>
   - 祈りの実例 -
 祈りの実例として今回ダニエルの祈りを考えてみましょう。
ダニエルは、エゼキエル書にこう書かれています。
「たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブがいても、──わたしは生きている。神である主の御告げ──彼らは決して息子も娘も救い出すことができない。彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。」(エゼキエル書 14:20)
ノアは家族を救いました。ヨブも息子たち、娘たちを聖別し、全焼のいけにえを捧げていたひとでした。彼の終わりの記事から、彼は家族を救ったひとであることが分かります。また3人の友を神の前に取りなしの祈りをした人でした。これらの祈りの人々に並べて神はダニエルの名をあげられました。エゼキエルがこの記事を書いた時、ダニエルはまだ若かったと思われています。ダリヨス王の獅子の穴の件で、彼はいつも祈っているひとであったことがわかります。それは若いときからの習慣であったことでしょう。
 ダニエルはネヘミヤ書の記事からエルサレムの荒廃が終わる時が近いことを知り、冒頭に引用した祈りをささげました。
 神はこのダニエルの祈りに応えて、ネヘミヤを興されたことでしょう。ネヘミヤの働きを通してダニエルの祈りはきかれました。

 神が人を救われるとき、その背後に誰かが祈った祈りがあると言われています。私たちも隣人たちのために絶えず祈るものでありましょう。

(仙台聖泉キリスト教会員)