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Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-147—

山本 咲


列王記Ⅰ 17章

  今まではイスラエル南北の王について語られていたが、17章に来て急にその記録の仕方が変わった。ここでエリヤという預言者とアハブという王の対峙が中心として書かれている。
 北王国イスラエルに対する神の導きを示そうとしているのだ。時代とともに王が変わっていったように預言者も入れ替わっていた。この時代においてはエリヤが、その後にエリシヤが預言者として立てられた。聖書はこの二人を通し、その背後におられる神の姿をより確かに現していくために、ここで流れを急に変え、スピードを落としてその姿を細かに描こうとしたのである。だからこそこの17章から預言者と神とのやり取りの中に現れる御旨やお扱いというものが読み取れるようになるのである。このような形になるとあたかも、今までは時が整わなかったが、ここにきて人々の信仰など、生活が整ったからこそ語られたのだというように思いやすい。しかし、実際は、全く逆である、彼らは整わず、悪循環の中に落ち込んでいってしまったことにより、神の干渉が行われない限り、どうしようもないからこそ、このところでそれが明らかに啓示されることとなったのだ。だからこそ、回復がなされずに滅びに向かうことを防ぐため、神はエリヤとエリシヤという預言者をおこされたのである。神は哀れみのゆえに人間を助けようとその御手を伸ばされたのである。ここに神の愛がある。しかし、もう一方で神は罪をそのままにはしておられないこと、罪に対する厳しさもまた抱いておられる方であることを忘れてはならない。
 聖書はある日、突然エリヤという預言者が現れたように書かれている。彼の紹介として17章の初めにほんの僅か提示されたのみである。もちろんその後、彼の装いや、彼の働き、業について語られている。彼の装いについては同じそれをした人物が新約の時代にいた。バプテスマのヨハネである。彼は荒野でそのような姿をしながら、人々に悔い改めを求め、水でバプテスマを与えていた。エリヤの装いは一般の人々とは異なるものだった。しかし、驚くべきは、それでも彼は王宮に入り、王に直接会うことができたということである。サマリヤに入り、彼は門衛が守る中を通って王の前まで行くことができたのだ。しかも、その装いは貴族のようなものではない。先ほど述べたように、一見するとみすぼらしいものであった。当時どのようになされていたかはわからない。通行証を持っていたのか、いやそのようなものがあったとしても、彼がそのようなものを王から与えられていたとは思えない。本来、王宮に入ることが妨げられてもおかしくない状況の中で、彼は堂々と正面から直接その言葉を王に伝えに行ったのである。それは彼が語るように「私の仕える神は生きておられる」という信仰によるものである。王の前に行くことができるかできないかということを考えるという次元の話ではなく、神が「王に語りなさい」と言われたのだから私はそのことができるという事実の中で彼は自らの召しを全うしていくのである。彼と道すがらすれ違った者たちもいただろう。しかし、彼らが驚き、何者だと思う間にエリヤは王の前まで行きつくことができた。もし少しでも彼が、神の言葉を疑い、不安を抱く姿を見せたなら、周りの者たちはそれに対し、逆に反応して、「お前は何者だ」と詰め寄っていったことだろう。以前ある人が買い物をした際にほかの物の会計をしていた際に未会計のバックを肩にかけたことを忘れてお店からでてきてしまったということがあった。そして、店の外に出てから、傍とその肩にかかったバックの支払いをしていなかったということに気づき、店に戻って会計をしたということがあった。少しでも怪しい対応をしていると人間は見破られてしまう。しかし、忘れていたゆえの堂々とした振る舞いが、未会計であるにもかかわらず、止められることなくその場を過ぎてしまうということに至ったのだ。私はそのことを思い出しながらこの17章も同じような状況だったのではないかと思わせられた。何度も言うが、彼の格好はいかにも粗野なものだった。しかし、堂々と彼は王の前へと出ていき「主は生きておられる。私の言葉によらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう」といその裁きの言葉を告げるのである。
 もう一度真の神の主の存在と、神が生きておられるということをよく考え、その神に悔い改めをもって自らを生かしていかなければならないということをエリヤは王に迫ったのだ。
 このようなことが行われない限り、雨は降らない。その時代に2,3年雨が降らないということは大変なことである。すでに良い状態ではなかった北王国イスラエルに対して、神は厳しくエリヤを通して迫っておられるのである。
 私の言葉によらなければということがとても大切なポイントである。だからこそ、彼はその身を隠した。王から逃げていたわけではない。見つからないようにしたのだ。それは、王の選ぶ時ではなく、神が示される時にこそ事が行われるためであった。ゆえに3節にあるように「ケリテ川のそばに身を隠すように」と言われるのである。そして、彼はカラスに養われる。エリヤに朝晩食事を運んだ。彼は預言をするものであり、神の僕であったが、王と同じように2、3年の飢饉の中に置かれることとなる。
 私たちも救いを受けた側であるが、時に行われる神の裁きを愛するものと共に歩まなければならない時がある。自分は救われたからとその負い目が免除されるのではなく、救われてもなお、誰かを導いていくために、その所を共に通る瞬間があるのだ。それによって悔い改めを求めることができるのだ。17章1節「私の言葉によらなければ」とあるように、エリヤがとりなしという役割を担うように私たち信仰者も共に歩む中でとりなしをしていくのである。聖書を読む中で、そのような人々が挙げられているのを見る。先日取り上げたモーセもイスラエルの民と歩むが、民の罪のゆえにその約束の地に入ることができなかったことが語られている。彼は民の中にあってとりなしをし続けた。このような姿の中にも私たちはイエス・キリストを見るのである。人となられた主キリストがその罪のとりなしのために、自らを苦しみの中に置かれたことを見出す。
神の恵みと祝福の上に私たちは幸いを得る。しかし、同時に、罪人である者たちと生きる中で、共に担う苦しみにも身を置いていかなければならないのである。
真の神を信じる中で、新約旧約を問わず神の言葉をとらえ、日々の信仰生活に活かしていきたく願う。


Q:シドン人の女のことで、彼女はいろいろな場面でエリヤとの交わりの中に置かれ、その命を救いへと導かれたり、逆に、息子の命がとられ、神によって罪に定められたと感じたりという中で、信仰を抱いていくようになりますが、神は彼女を取り扱おうとエリヤを遣わしたというとらえ方でよろしいでしょうか。

A:すべての人に対して神のお取り扱いはある。決してツァレファテの女にだけあることではない。これは一つ神がある形でショーアップした出来事なのだ。エリヤしか事実上知らないことであるため、彼がエリシヤか、預言者のともがらに語ったことがここで描かれているのだろう。このところを通し、神ご自身が栄光を表された出来事として取り上げられたのだ。すべての人に神の恵みがあり、神に対する悔い改めが必要であることが語られている。こののちにカルメル山でのバアルの預言者たちとの対決があったり、エリヤ自身イゼベルとの戦いの中でもう終わりにしたいと思ってしまうようなことも起こったりしてくる。イゼベルはバアル信仰を広めるための大伝道者だった。カルメル山でエリヤと対峙した850人もの預言者たちを養っていたのは彼女である。いくら彼女が女王であったとしてもそう簡単なことではなかった。彼女は己のところにバアルを礼拝するために来たものに対しては当然の日当を支払うというような気前の良さを見せている。そこから見えるのは着々と物事をやり進める有能なものの姿だ。彼女は本気でイスラエルにバアル礼拝を広めようとした。彼女はやり手で、自分の旦那アハブが、ナボテの畑地を欲しがって思い通りにならないでいた時にも、手紙一つで周りのものにナボテを殺させて、その畑地を奪うということもやってのけた。彼女はその手を各方面へと広げながら、イスラエルを真の神から切り離させるようにと働いたのである。その彼女の姿にイスラエルの人々は真の神を信じるということよりもバアルに仕えた方がよいのでは、利益があるのではと思わせられた。その様に新旧両宗教ともの良いとこ取りをしてイスラエルは栄えていくと思わせるようになる。そのような状況だからこそ、神はエリヤにバアルに膝をかがめない7千人の者の存在を示したのである。7千人の者たちがどれだけ彼に力を与える存在であっただろうか。というのは反面当時それだけ多くの人たちがどんどんと神から離れてしまっている現実が列王記にはあるのだ。現代と異なると思うのではなく、今生きている私たちの時代、信仰が当時と同じような中に置かれていることを考えていかなければならない。それは「イスラエルの神」がということではなく「真の神は生きておられる」という言葉の通り、「私たちの信じる神」が生きておられるのだ。すべての人々の前に生きておられる真の神は厳しさも持たれているが、その神の御前に真実に生きることで大いに愛と憐れみを注いでくださる方だということを信じ畏れて歩むということが大切なのである。
 イエス・キリストも律法学者を前にこのエリヤの出来事を取り上げ、当時やもめは多くいたが、彼が遣わされたのは異邦人のやもめのもとだったと語っておられる。律法学者たちは自分たちがイスラエル人であるその名のもとに恵みと救いがもたらされると思っていたが、実際はその時代から、神の御手は異邦人のもとにも述べられていたことをキリストは示されたのだ。すべての人の前に神の豊かな導きと恵みと厳しさ、現実がある。礼拝で先日咲師が語っておられたが、ラハブのゆえにその一族はみな救われたということもある。神の恵みは信仰の白黒で表されるものではない。エリヤがそばにいることによってシドン人の女が豊かにいのちが救われたように、救いは信仰者を通してあらわされることもある。このエリヤは一面神を象徴している。エリヤがともにいるからこそいのちが守られ、病から癒された。今もなお生きておられる神がそばにいてくださる時に私たちには大いに畏れるべき出来事からも救いの御手が与えられるのである。


Q:6月末の礼拝の時に、教会の守備範囲ということが話されていました。「守備範囲と広い視野を持つよう」にと語られていましたが具体的に教えていただけますか。

A:守備範囲というのは、教会の兄弟姉妹がお互いに助け合ったり、新しい人が入ってきて居場所を見つけたり、一人ひとりが成長していくにあたって、人との相性というものが関わってくる時がある。AさんはBさんの良いところに気づけて互いに補い合ってできるがCさんにはBさんの良いところは見えないということもまたある。教会というのはそのような中で人々の関係が構築されていく。数人から始まって、だんだんと人が増えて大きな組織へとなっていく。その最初から相性が合えばいいが、そうでないとなかなか前進しない。私たちの教会は50人に満たない位の人数だが、そこにいくつかの家庭があって、お互いが積極的に関わりあう中で、相手を理解しあい、そのかけを補う関係が出来上がってきている。相性すらも理解することでお互いが長く居続けられるようにするとともに、新しい人が入ってきても、受け入れるようにしているのだ。50人のうち20人が一生懸命やっていても、残りの30人がお客さんのような状態では教会の規模は20人までの規模で収まってしまう。だからこそ私たちはそれを20人ではなく30人、30人ではなく40人と拡大維持しようとしている。だからこそ教会全体が一丸となって多くのことを行うことができている。ある先生が私たちの教会を礼拝100人規模の教会だと思っていたということがあった。というのは私たちが行っていることは100人規模の教会の中で40人くらいがその奉仕をフルパワーで行っているときに見られる活動内容と同じだからなのだ。それが私たちの教会の特出しているところなのだ。私たちは互いが賜物を持ち合いながら、多くの守備範囲をもって教会全体でことを行っているのである。それは一面厳しかったり、ハードルが高かったりという面がある。お客さんとして参加しているという方は居難くなってしまっている部分はある。というのは私も何かをしなければならないと迫られているように感じ、何もしないでは居心地悪く感じてしまうからである。もちろん追い出そうというようなつもりはないが、各自が大切な信仰を築き上げていく必要があるということを伝えているために、そのようになっていくのである。人によっては、すべての人ではなく、一部の人が担われているような状況があってもよいのではと思うかもしれない。しかし、それを許すとあっという間に50人中10人そのうちに20人と担われていく人がどんどん多くなるようなことが起こってしまうのである。それによって教会自体が力を失い、その信仰を維持していくということにまで影響を与えることがある。それはリスクが大きいのではと思われるかもしれないが、私たちは人間の業によってことを行おうとしているのではない。神が召されたこの教会で神の御業が行われることを信じつつ、生き生きと過ごしていくことが大切であるとしているのだ。現在は多様化の時代である。自由でいいのではと思ってしまう。しかし、それは一面神が遣わされた、導かれたものを自分の都合や、好みで変えてしまうということが出てくる場合があるのだ。だからこそ、私たちは遣わされたこの教会にあって聖書でも語られている通り、それぞれが各器官として自らの役割を果たそうと努力しているのだ。それは子どもからお年を召された方に至るまで例外ではない。私たちの教会の子どもたちもまた、その年齢にあるべき信仰を築き上げている。子どもたちが二時間静かに礼拝や集会を守っているその事実はかけがえのない彼らの神への献身である。なお、私たちもそれぞれが持つ賜物を活かし、働きをなしていきたく願う。


Q:主体的に動く姿が最終的にこの教会を動かしていると最近感じました。主体的に動いていくことはどのようにしてなすことができるでしょうか。

A:インマヌエルという団体から聖泉連合という形になってシステムは監督政体から変えられる必要があった。監督政体とはトップに立つものが指示をだし、それによってことが行われるシステムである。しかし、それは一面トップに立つものが率いている間はいいが、それがままならなくなった時に崩れていってしまう。だからこそ、それぞれが信仰的に成熟し、信仰による主体性を持ってそれぞれが行動を起こすという形に変えていくということがなされたのである。光明牧師の時代はまだ監督政体の名残があったため、あまり自由に事を行うことはできなかった。というのは一面自由にそれぞれが好きなようにやっていいほど個人の信仰が安定していなかったということもあるのだ。だからこそ光明牧師はそれぞれの信仰を育てはぐくむために、愛をもって厳しく立っていた。愛するゆえに必要があるところが見られると相手を呼び出して変えるべき部分を指摘し牧会していた。その人格が神の前になお、豊かに信仰を持っていけるようにと語られたのだ。しかし、聞くことができる心がなければ、それはただ口うるさい小言というものになってしまい、叱責を厳しいと感じてしまう。ただ、そのような状況は一面悔い改めにもつながる必要な部分であった。それでも時代の変化とともに私は手法を変えた。私は相手が意志して聞きに来るという状況が導かれたときに伝えるという方法をとることにしたのだ。それは時代に合わせた変化である。どっちの方がよいというものでもない。その時代背景や、一人ひとりの状況、それらのものがあって私も手法をそれぞれに合わせて変えることとしたのだ。
 叱らない父親はいない。と語られているが、注意を受けるということは必要であり、それを受けようとしなかったり、受けられなかったりという事実は悲しまなければならないことなのである。他者からの叱咤激励は聞けるようになっていかなければならない。それは確かにその時はつらいものではあるが、その言葉を受けて自分を戒めるならば、大きな成果につながるのである。
ある家庭集会で語ったが、キリスト教は成果主義ではない。ただ、成果が何もいらないかというとそうではない。5タラント預かったものが5タラント稼いだように、私たちは一面成果を上げる必要がある。親が子どもに信仰を得させるには成果が必要なのだ。大人になれば成果ではなく信仰というものの大切な部分が見えてくるが、子どもは成果がないと信じるに至らない。信仰は成果ではないのだと子どもに成果を見せないままでいれば、世の中のわかりやすい成果に支持を与えてしまうのだ。信仰による成果というものを探り、子どもの人格をよく見て伝えていく必要がある。それを子どもたちに味わわせる必要があるのだ。親は信仰者にとってわかる成果と、信仰者ではなくてもわかりやすい成果を持っている必要がある。私はジムで話をするとき、福音を伝えられるようにわかりやすい成果を示すときに使うのは葬儀でかかる金額である。「仏教はお葬式でかかる費用が高いですよ。キリスト教はそんなにかからないですからね」成果と言えるかどうかは微妙なラインであるが、それほどまでに相手に合わせて目に見える成果を示す必要が時にはあるのだ。ましてや、子どもならなおさらである。最終的には神の救いと幸いに繋げていくことが必要だが、そこに至るまでには目に見える形でも、示していくものが必要なのである。


Q:詩篇の122篇のところに都のぼりの歌ということが書いてあるのですが、どのようなものですか。

A:出エジプトの際、神が行われた10の禍で初子が死ぬということが起こったとき、鴨居に子羊の血を塗っていた家はその禍が過ぎ越されたという出来事があった。そのことを忘れぬようにと作られた祭りが「過ぎ越しの祭り」である。そしてその際にエルサレムの神殿、つまりは都へ行ってその時を祝うということが行われた。だから、都のぼりと言われていたのだ。その際に、賛美されたのがこの都のぼりの歌である。イエス・キリストも過ぎ越しの祭りの時にエルサレムの神殿に礼拝しに行くことがあった。この祭りの際には神殿に行くために多くの人で行列ができるほどだった。マリヤとヨセフも12歳のイエス・キリストを連れてこの祭りのために神殿へと向かった。しかしその帰り道、一日の道のりをいったところでイエス・キリストがいないと気が付き戻ったところ、神殿で話をしていたという出来事があったことを聖書は述べている。そのように、部落の者たちが一緒になって大移動するために自分の子どもがいなくても気が付かないほどの出来事だったのだ。話は逸れたが、そのようなときにそろって賛美したのがこの都のぼりの歌なのだ。これは一面宗教教育であった。子どもたちもこれらの賛美をしながら、神を礼拝していたのだ。
 プロテスタントは説教を聞くということがメインになりやすいが、礼拝とはある面、儀式的なものなのだ。心を整え神の前に出て、賛美し、祈り、神の聖言を聞くということが大切になってくる。精神論だけではなく、そこで生きるということが重要になるのである。


Q:先日咲先生のメッセージの中でヨシュア記3章が取り上げられました。その中で、咲先生は「取り組み」という言葉について語られていました。必死になってことを行っていくということですが、私たちの信仰生活はそのようにあるべきだということでよろしいのでしょうか。

A:理屈ではなく現実行っている旧約の人物たちをどのようにとらえていくか、ということが大切になる。神の憐れみだけを受けようとするというのは片手間である。カナンの地にはいれた初代の者たちはヨシュアとカレブだけだった。そのように神がなさった事実も私たちは考えていかなければならない。その現実をどのようにとらえていくかが大切なのだ。神の厳しさと憐れみを一つとしたものが信仰である。私たちはそれを捉えていく必要があることが語られていたのだ。あなたがどのように人生の中で信仰生活を全うしていくかが問われている。それに対してなぜ憐れみだけではなく厳しさがあるのかわからないなと言っていても仕方がない。厳しさが分からなければ、真の憐れみも解からない。信仰がない人にとって神の憐れみはわからない。なぜなら厳しさがあるからこそそこから救い出される憐れみということが語られるのだ。そうでなければその関係は崩れてしまうものとなる。そのような信仰では形になっていないものも同然で「その程度か」と言われてしまうものになるのだ。「その程度」あなたにいうのは誰だろうか、また何と比べているのだろうか。一番近くで信仰を見る者があなたの信仰を世の中と比べて「その程度」と図るのだ。子どもたちは教会で育つゆえに神の存在への畏れも感じている。だからこそ畏れて、物事を見ているにもかかわらず、大人が中途半端に信仰を行っていて結局どうにもならないという姿を見せていると「その程度でもやっていけるのか」と結局、神を畏れないものへと繋がってしまうのである。神を畏れ真実に歩むことこそ、何よりも大切な「取り組み」なのである。


Q:ネヘミヤ記の9章26節からのところで、信仰に立っているにもかかわらず、神の前に悪事、裏切りが見られています。神を信じる信仰者であってもなぜそのようなことが出てくるのでしょうか。

A:彼らはその意味で選ばれた民だった。幼い時から彼らは神と共に生きるようにと示された。一種のエリートである。そんな彼らですらも、至らないところがあるのだ。それこそ人間の弱さである。だからこそ、神の助けと哀れみが必要なのである。そして本当にその所に至るためにイエス・キリストの贖いが必要なのである。私たちの信仰とはその人生の終わりの時に宣言をするものが「この人は信仰を全うして天の御国へと召されました」と語られてそのことが神によってなされたと示される。それ以外にその信仰が全うされたことを表す方法がないというのがキリスト教である。信仰を評価するということはできない。それができるのは神だけである。しかしだからと言って信じている側が、人間は弱いのだから、しょうがない何をやってもいいでしょうという心構えであってはならない。だからこそ、私たちの罪に対する姿勢が重要になってくるのである。私には私の信仰がありますというならそれで終われる。しかし、私たちの教会は信仰を全うするうえである程度の指標をもっている。基準も何もなしに評価をするのではなく、ある程度守るべきことなどを決めているのだ。クリスチャンの中には自分に合った教会を捜しているという人がいるが、それは、自分のクリスチャ二ティーと合わせ、自らを整えようと捜している人たちである。自分の信仰をどこで育み全うしようか、どのようにして憩うかと考える人たちが多いのだ。私たちの教会で育った人たちは指標を自分に合わせるのではなく、自分を合わせていこうという方向でいる。だからこそ、他教会に行こうとあまりしない。信仰とは究極、その人のものであり、評価を誰かが下すということはできない。だからこそ、どうでもいいものになってしまうことも畏れていかなければならない。
 私は責任上、人を神のもとへと導くという立場がある。人間は正直に話しているつもりで説明をする際にどこか自分の思い通りの行きたい方向にもっていくような話し方をする場合がある。だからこそ、私は導く立場として、相手を見たときの印象を大切にしている。その人の相談の内容だけでなく、その歩みを共にしながら見えてくるその人の様子を大切にしているのだ。そのようにして意識してみると色々なものが見えてくるのである。
 そのような日々の中にあって互いを整えるために私たちは語り合う関係性を築き上げていく相手を作っていく必要がある。その中で信仰生活の中で悩んだときに相談したり、指摘しあったりすることができるのだ。それによって意識的か無意識的かは別として自分の欲の向くままに行ってしまいそうなところを戒めて、神の道に自らを歩ませることができるのである。なお、相手との関係を豊かに持って行っていただきたい。  今月も多くのことが示されたこの聖書を学ぶ会であった。なお、またこのひと月を感謝と共に歩ませていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)