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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-143  —

山本 咲


列王記Ⅰ 13章

 この章では北王国のヤロブアムの事柄が語られている。前章ではヤロブアムがダンとベテルに金の子牛の像を建てたことが書いてある。今まではイスラエルを一つの国としてそこにのみ焦点が当てられていたが、この書は北王国イスラエルと南王国ユダを分けて比べながら書き記している。預言者のともがらがこれらのことを書き記したが、その内容は神の視点に立つものであった。今の時代も記録は多種多様にあり、ニュース記事一つとっても多く情報がある。その中から、聖書記者たちは必要なものだけを集め記したのだ。ヤロブアムの罪は金の子牛の像をダンとベテルにおいたことである。彼は王国を自分のものとするためにそのことをしたが、それによってイスラエルの礼拝を正しい形で行わせるのではなく、あたかも礼拝環境を整えたように見せて、捻じ曲げ、偶像礼拝を推奨する形になってしまったのである。彼の目的は北イスラエルの人々がその地から出ていくことを防ぐためのものであった。しかし、このことを通して、彼は自らを滅びへと向かわせることになるだけでなく、北王国イスラエルに偶像礼拝がなお広がるきっかけを作ることによって、民をも滅びへと向かわせたのだ。本来イスラエルにとって必要なのは正しく神を礼拝し、神を信じて生きることであった。そして、王はその責任を預かるものでなくてはならなかった。にもかかわらず、そのような価値観は彼の中には存在しなかったのである。
北王国イスラエルは歴代王朝が変わっても背信をし続けた。今日のところでは南ユダからヨシヤという王が起こされ、祭壇に行うことが預言されていた。実際、これが行われるのは北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた100年後ごろの話であるため、この列王記13章から数えればおおよそ300年後の出来事が予言されているのだ。列王記は人々の背信とそこに神の豊かな導きがあり、神が悔い改めを求め続けていることが書き記されているのである。神は彼らが悔い改めたなら、大いなる愛と恵みをもって王を赦し、民を赦しダビデと同じようにお扱いになっただろう。しかし、彼らは悔い改めなかった。神がそれを求めておられることに対し、真実に答えるのではなく、頑なに背信を続けていくのである。
預言者がわざわざユダから、ベテルまできて祭壇に向かって預言をするという極めて不思議な事が行われた。この場にヤロブアムがいて彼は一連の出来事に立ち会うことになる。彼は予言の内容に憤り、その預言者をとらえるようにと命じた。しかし、それは彼の手がしなびることを通して止められる。この出来事は彼に対する裁きというよりも哀れみである。神がわざわざ預言者を送ったことや、その手がしなびたことはヤロブアムへの悔い改めを求めたものであった。そして、神に立ち返り、正しい形で礼拝をおこない、神を中心とした王国をもう一度建て上げていくことを期待されたのだ。たらればではないが、彼が確かに神を畏れ、悔い改めを行ったなら、その場で祈りがささげられ、彼は神に受け入れられただろう。しかし、彼の悔い改めは言葉だけであり、手を元に戻してもらうための口先だけのものに過ぎなかった。彼は背信の罪から離れることができなかった。最初のところでも語ったが、聖書記者たちは、何をこのところで記すべきかと神の御心を追い求め続けながらこの出来事を記した。ヤロブアムの背信の罪、そこに対する神の哀れみの数々、行われた特別な出来事、しかし、それさえも無視して彼は罪を犯し続けたという事実である。その結果、彼の一族は滅びを迎え、根絶やしにされてしまうのだ。
神の厳しさと神ご自身がこの世を支配されていること、その憐れみが記されているのだ。
この出来事ののちに起こった、預言者と彼をだました老預言者のことにもそのような神の御手の動きが見えてくる。偶然彼が獅子に襲われたのではなかったことは獅子が預言者以外を切り裂かなかったという事実を通して明らかにされている。預言者であっても裁きは同様に訪れる。預言者は神の言葉を伝えるということだけが役目ではない。彼は神の言葉に聞き従い、それを守るべきであった。だまされたということがあろうとも、彼は神を第一としなければならなかった。この出来事が記されているのも、当時の預言者たちが大きな恐れをもってこの真実を伝える必要があると示されたからである。今何が行われ、何を伝えなければならないか、残さなければならないのか、それらを記事として彼らは残し続けたのだ。この出来事では神の厳しさのみが書かれ、その実、悔い改めと遜り、赦しの出来事は記されていない。そのようにできた人物がいなかったということが当時の現実だったのである。その歴史を見続ける中で、このことは旧約の時代だけでなく、現在の新約の時代にも同じことが言えるということを考えていかなければならない。私たちに与えられた赦しや贖い、それを自らの前に置き続けながら、神を畏れへりくだって歩み続けなければならない。
勝手に神の存在を作り上げ、ヤロブアムのように自分に都合のいいようにしてはならないのだ。それは自分の保身と、自分が生きやすいようにことを動かす材料として扱っているのであり、決して本来の神に対する正しい信仰ではないのである。
老預言者がユダから来た預言者をだましたことでことが起こってしまう。彼は悪気をもってこのことを行ったわけではなかった。彼はベテルで起こった大いなる御業を驚きながら、敬意をもって預言者に近づいたのだ。しかし、彼は自分の思いを果たそうとするゆえに、だましたのである。その結果、預言者は獅子に引き裂かれるという最後を迎えることになる。老預言者は自分自身が誘惑したのにもかかわらず、預言者に対し「神の言うことを聞かなかった」という事実を宣告する務めを果たす。そこから彼が預言者である事実も分かる。偽預言者であるとか、勝手に預言者を名乗っていたのではない、彼は確かに預言者だったのだ。しかし、北王国にあって責任を果たすことのできない、神を信じ、畏れることを全うできない老預言者の現実が記されているのだ。彼は肩書を持っていたが、周りの人々に対して、地の塩、世の光としてその信仰者としての姿を示すことができなかった。私たちはこのような時代の中にあって、自らを本気でイエス・キリストの救いと福音の中に生かしていくことができるか、それともこの世に迎合してしまい、周りに合わせて、その役割を見失ってしまい名ばかりの信仰者になってしまうのか。ヤロブアムとこの老預言者の末路を見ながら畏れ歩んでいかなければならない。

Q:今晩の預言者の姿からも示されたことですが、礼拝の中で多く誘惑や、それに対してどのように歩むべきかということが語られていますが、先日語られたマタイの福音書16章15節からの一連の出来事の中で、ペテロがイエス・キリストを生ける神の御子キリストですと答えておきながら、そののちにイエス・キリストがご自身に対しこれから起こってくる十字架のことを語ると「そんなことがあなたに起こるはずありません」といさめたということが取り上げられました。ペテロにはわかっていたように思えて、肝心な部分がまだ理解できていなかったというのでしょうか。結局神ではなく、人を中心にして考えている部分がありました。ただ、彼はそこから十字架の出来事を通して立ち返ることができました。そこに差があると思いますが、それは彼が遜る心を持っていたからなのだと理解したのですが、よろしいでしょうか。

A:ペテロはイエス・キリストが天に昇られた後、伝道の働きに召されるようにと選ばれた者であったという事実がある。イエス・キリストはルカの福音書22章31節からのところでペテロの信仰が無くならないように祈ったこと、そして立ち直ったら、兄弟たちを力づけることを告げる。そして自分の信仰に自信をもって死の覚悟ができていると語るペテロに対し、「鶏がなく前にあなたは三度、わたしを知らないといいます。」と言葉をかけるのである。イエス・キリストの祈りと預言がなされたところであるため、それまでの間にペテロの悔い改めが確かに行われたということはある。ただ、先日の礼拝では、私たちに与えられる「知る」ということと「従う」ということの違いを表し、私たちは従うことを選び取っていくことが必要であるということを語ったのである。その意味において、従うということがこの宗教において重要なのである。私たちは神に対し、どのような姿勢でいるべきか、何が正解かということを探るうえで大まかにあらわすならば、必要なのは「従う」ということである。私たちはそれを大切な人格に伝えていくべきなのだ。先日盡子師が亡き母親のことを語っていたが、彼女の母親は病の中で自分の命の先が短いことを悟り、娘に対して何を残すべきかという緊張の中にいただろうことが考えられる。その結果、盡子師を目の前に座らせると、「牧師先生にこの人と結婚しなさいと言われたら、『はい』と答えなさい。そうしますと今ここで宣言しなさい」と迫ったことが語られていた。物事の進め方としては確かに強引に見えるかもしれない。しかし、そこで娘に従うということを示し諭したのだ。 「知る」ということは、従うことや、信じることにおいて重要である。知らなくていいかというとそうではない。神は従っているだけでなく、そこで知ることを求めておられるのも事実である。そしてそれをよく捉えながら歩む必要がある。
またそれに続く部分マタイの福音書17章において「イエス・キリストがなぜバプテスマのヨハネと自分をリンクさせて考えているか」ということを礼拝で語っていこうとしている。イエス・キリストは自らに与えられようとしている受難の出来事とヨハネの受難を結びつけたのである。ヨハネでさえ、イエス・キリストに対し弟子を送り、あなたは来るべきメシアですかと尋ねていることがある。それに対してイエス・キリストは預言されている事柄をあげて、躓かないものは幸いですと語った。人間が躓き、憂うるのはこのような受難に出会ったときである。しかし、このことを越えていかないと、イエス・キリストの救いにあずかることはできない。では、必ずみなそのような苦しみを受けなければならないかというと、確かにそうであるが、本当の意味での受難はイエス・キリストが受けてくださったということを理解していかなければならない。そうでなければ、私たちもペテロのようにその本質を理解せずに姿かたちばかり整ったメシア像を作り出して、自分勝手な宗教にしてしまうことにつながるのである。聖書には「自分の十字架を負ってわたしについてきなさい」と語られているように、確かに私たちには負うべきものがある。それを忘れてはならない。そうでないと、結局誤った形で救いや贖いというものを理解し、それを伝え、相手を本来の救いから遠ざけるものになってしまうのである。
救いや贖い、愛は心地いい言葉だ。しかし、その背後には従っていくということが必ず求められるのである。そうでなければ、結局甘くて自分に都合の良いものへと変わってしまうのだ。それは先ほど語ったように背信の罪である。老預言者は自分が相手を接待したいという思いから神の言葉を捻じ曲げ、御使いがそのように伝えたと言って彼をだました。これ位いいのではないかと自分を押し通した。それゆえに一連のことが起こってくる。「神は愛だから、あなたのそのままを受け入れてくれる」とただ怠惰に肯定していて愛する者の罪を指摘しないでいることはこの老預言者と同じである。それで結果は愛する者が滅びへと向かうことを招いてしまうのである。だからこそ、私たちはそのような背信を恐れ、罪に対する厳しさを忘れないようにしていかなければならない。

Q:「神はそのままのあなたを愛してくださる」や、「今のあなたのままでよい」と語られているとだけとらえてしまいやすいですが、それは誤りであり、実際にはそのままではいけない部分が確かに存在すると語られています。多様性が認められる世の中になってきていて、そのような社会とキリスト教の価値観は違うのだと感じ、同時に、そのような社会に対して恐れを感じました。

A:それは私たちが、聖言に触れ続けることの大切さを意識していることの現れである。神の哀れみの大きさを表す題材として、「あなたはそのままでよい」と語られる時はあるが、ただ、それでも、神のもとに行くということ、信仰を持つことを前提とした話である。つまり、神の愛、哀れみ、贖い、救いを受ける時点において資格は必要ないということなのだ。何かができるからその罪が贖われ、赦されるということではなく、信じることができたなら、受けることができる。しかし、それはその時点においての話であり、その先の信仰生活においてそのまま変わらなくてよいかというとそうではない。赦されたのにもかかわらず同じように罪ある生活をしていては意味がないのだ。
世の中が語る多様性とは、自分の生き方を認めるために使うものではなく、どちらかというと他者、自分と違う人を認め、許容するという意味で多様性を受け入れるということが語られているのである。つまり現在は、個人がどのような考え方を持っていてもよいという寛容な時代になっているのだ。そのため、私たちが自分たちで誘惑から離れて生きられるなら、このような時代は決して悪いものではない。排除され、迫害されない時代であるという面で言えばよいものである。しかし、一方で、どのように動機づけをして、神を畏れて生きていくかということが重要になってきているのである。 そのため積極的な意味で、なぜ信仰が必要なのかということをもう一度考える機会となっているのである。その真理が見出せなければ、多様性というあいまいさに自分の信仰を確かな形で確立できず、中途半端な信仰で終わってしまうということも考えられる。特に私たちは次世代に受け継ぐにあたって、子どもに信仰を教えていくということの意味をもう一度考えていかなければならないのである。そして、子どもがそれとは違う行動をとり始めたときにそれにどのように対処していくかということを考え続けなければならない。そのためには信仰者としての豊かな営みをもっていく必要がある。それを積極的に自分のものとし、歩み続けることが大切なのだ。
私たちが家庭集会に行くときには信仰に関してある一定の価値観が打ち出され、そこをもう一度確認しなおしている。それは家庭内において夫婦の信仰的価値観が一致していなければ、互いの信仰を理解し、成長し、深めていくことができないからである。だからこそ、夫婦の関係において性別の違いで考え方や、行動に違いがもたらされるが、それを互いに理解しながら、助け合い、心を分かち合っていくことで、良い関係を築いていくことができるのだ。そのために必要なものはコミュニケーションである。時間をかけ、かかわりを持っていく必要があり、これが不足してくると、信仰的価値観の不一致や、すれ違いのゆえの不和を引き起こすのである。またそれは子どもたちとの関係においても同じである。子どもたちは小学校4,5年生ぐらいになると自分の中にある価値観を少しずつ打ち出してくるようになる。その時にはよく話を聞いてみるとよい。それによって子どもたちが抱えている価値観や、考え方、思いをよく知ることができるようになるのである。

Q:イエス・キリストをサタンが誘惑するということを取り上げてサタンが誘惑の種をまいた。ということを語られましたが、そのような誘惑を私も日々の中で感じます。誘惑に対して、悔い改めていかなければならないと語られていて、そのようにしていかなければと感じました。先日「ひれ伏して拝むならすべてをあなたに与えよう」という誘惑に対して重点を置いて語られていたと思うのですが、もう一度詳しく教えていただいてもよろしいでしょうか。

A:私がそこに重きを置いたのは、サタンが語る行為を行うことに誘惑があったのではなく、そこに同時に罠が仕掛けられており、それが誘惑の種であるということを示そうとしたのだ。サタンは「私を拝みなさい。そうすれば全部あなたにあげよう」と語ったがそれは、拝むことで道を外すことを目論んでいたのではない。それではあまりにも単純すぎる。ならばこのところにある誘惑とは何か。それは「この世界のすべてがまるでサタンの手の内にある」と思わせるということだ。確かにこの世は悪がはびこり、罪が多く、その世の繁栄はサタンの手によるものであると思われる。しかしそれは過ちである。聖書にはそのようなことは一つも書いていない。この世はすべて神のものであり、神のご支配から外れているものは一つもないのだ。しかし、サタンの「すべてをあなたにあげよう」という狡猾な誘惑によって私たちはあたかもそれをあげられる立場にサタンがいると騙され、罪の種をまかれてしまうのである。しかし、実際はそれができるのは神だけである。サタンにはその権限は与えられていない。にもかかわらず、罠にはまった者たちはその誘惑の種をまかれ、それが芽を出すと、日常の中で何か問題が起こってきたときに、この世はサタンが支配しているからこのようなことが起きるのだ、何をしてもしょうがない、信仰を持っていても意味がないと思いやすい。また、自分が信仰を維持できないことをそのようなサタンのせいにしてしまうということも起こる。しかし、そうではない。すべては神のご支配の中にあるのだ。そのことを忘れてはならない。そうでなければ福音の種はカラスに持っていかれてしまい、かたや誘惑の種が100倍の実を結んでいるということが起こってしまうのだ。なお、私たちはサタンの巧妙な罠にはめられないよう、恐れ、神の道に歩み続けていきたく願う。

Q:先日仙台聖泉一本杉教会で三浦綾子文学講演礼拝が行われた際に求道者の方が「神が支配しているというのに、なぜ戦争などが起きるのでしょうか」と疑問を持っていました。そのような質問はよく出てくると思います。どのようにその問いに答えていくべきでしょうか。

A:私たちはそのような質問に答えるにあたり、質問してきた相手を見極める必要がある。相手が本当に質問に対する答えを求めているのか、それとも慰めてほしいのか、もしくは私たちがそれに対して何かを言ってくるのを待っているのかと探る必要がある。時には「わかりません」ということや、「そうですね」と軽く話して終えてしまうこともいいのかもしれない。
対する人物が本当に大切な人格ならば面と向かって答えてあげる必要はあるが、そのような場合でない相手で、本気で聞いてきていないのならば、流すということも必要である。私が信じることとしてはサタンがこの世をすべて支配しているなら報いは起こらないということである。主が支配しておられるから、主が報いてくださるのだと理解していくことが必要なのだ。

Q:悔い改めるということは具体的にどのようにすればよいのでしょうか。

A:悔い改めるには認罪が重要になってくる。それは霊的な感覚によって起こってくるものだ。そのため、鈍感には注意していなかければならない。鈍感な人はそのような感覚が鈍いため、自分が罪を犯していることに気づきもしない。悔い改めの実ということを昨年語ったが、悔い改めるとは口で何かを語っただけで終わることではない。実際にそれによって現実的に変化が見えてくる必要があるのだ。ヤロブアムも手がしなびたとき、口では赦しを願ったが、章の最後にはそれでも、彼が変わらなかった現実が語られている。
例えばあなたが病気になったとしよう。その現況を直す治療を受けなければ完治することはない。治療を正しく受ければ、それによって病が癒され、健やかに過ごすことができる。罪も同じである。罪が宣告され、それを悔い改めるという治療を受けることを通して、罪から解放されるのだ。しかし、対処をしなければ、その罪もそれによって引き起こされる日常的な問題も改善されていくことはない。そのまま、苦しみをもって生きなければならないのだ。病にも緩和治療というものがあるが、同じように、私たちの罪に対しても一見症状が軽くなるような緩和治療がなされる時がある。悔い改めて、変わったように“見える”という状態だ。しかし、その実態は完治していない。ということはどこかで再発する可能性がある。罪の元凶を抱えたまま、生きているということなのである。だからこそ、私たちは認罪を通して、自らの罪を知り、それに適切に悔い改めという対処を行い、それを繰り返さないようにする必要がある。日々の信仰生活の中で罪を犯してはいけない、という思いをもって生きられるかが重要になってくるのである。そうでなければ、悔い改めてはまた罪を犯し、また悔い改め、と結局いつまでも罪から解放されず、そこから離れることができないということになってしまうのである。最も重要なのは、キリストの救いと贖いを感謝し、聖霊の豊かな導きに従いながら遜ってその恵みに生き続けることである。

Q:物事を神にゆだねるということが語られていますが、同時に自分の必要な努力もしていかなければならないとも言われています。努力をして行動しているとその時に本当に自分が神にゆだねているのかと思う時があるのですが、どのようにとらえていくべきでしょうか。

A:ゆだねるということは、イコール努力をしないということではないし、努力しているからゆだねていないということではない。確かに自分の努力とゆだねて歩むという加減に悩むときはあるが、まずは神のみ旨はどこにあるのかを探りながら、信じてその時を精一杯自分の力を注ぎながら、生きていくことでよいと考える。努力することは怠惰よりも圧倒的に良い。ゆだねていないのではと思わず、今やらなければならないことを精一杯行うべきなのだ。もちろん努力に力を注ぎすぎて、神のみ旨を探ることを忘れてしまってはいけない。しかし、神のみ旨を意識して畏れて歩んでいるときは、み旨に沿わないものを目指しているとどこか居心地が悪くなり、違和感を覚えるものである。一方で「これはみ旨だ」と確信を持ちすぎていると、誤った方向に進んでいてもそれに気が付かないこともある。だからこそ、日々色々な形で確認していくことが必要である。もちろん、必要以上に心配しなくてもよい。「努力して狭い門から入りなさい」と語られていうように努力は神から認められている。おごり高ぶらず、なお神を信じ、そのみ旨を探りながら、自分にできるせい一杯を行っていくことが大切である。

神によって導かれたこの学びの時を感謝しつつ、今月も神の御心を求めながら、信仰をもって歩ませていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)