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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-141  —

山本 咲


列王記Ⅰ 11章

 これまでソロモンのことが多く取り上げられ、彼が知恵を用いて国を治めたこと、そこから見出された祝福、与えられた恵みがどのようなものであったのかということを語ってきた。しかし、そのすべてが神から与えられたものであることを忘れてはならない。にもかかわらず、ソロモンは神に感謝し、神とともに歩むことでその恵みを維持し、増し加えるのではなく、最終的には自らの知恵や功績、財によって国や地位を維持するようになっていたのである。それは彼に多くの妻がいたことからわかる。婚姻は外交を行う上で関係を作る効率的で一面賢い手法である。しかし、それはソロモンやイスラエルの民を神から引き離す大きな原因となったのである。数多くいた異国の妻たちとともにイスラエルのもとには多くの文化が入り込んだ。文化は一面、国が成長し、発展するうえでとても有益なものである。しかし、それは多様性をもたらすものであり、選択肢が多く広がってしまったがゆえに、真の神を選ぶ生き方から、どんどん離れてしまう結果をもたらした。それはソロモンも同じであった。彼の妻たちがその心を変え、彼の大切にしなければならない霊的価値観を覆すものとなったのである。この問題は違う宗教を受け入れる寛容さと勘違いされやすいがそうではない。今は時代的に広い価値観と、多様性を受け入れていくような考え方が広まっている。しかし、それは一面、誘惑に負け、自分の欲求を通そうとするなど、神から離れてしまうという選択を引き起こす可能性が十分あるということをよく考えていかなければならない。他者の考えを否定し、排他的にするということではない。それは差別である。必要なのは区別である。神から離れてしまわないように注意していかなければならない。当時ソロモンが知恵を用いてその時代の平和を築き上げていた。この事実を取り上げ、神の栄光を表したと彼を評価することはできる。しかし、それだけで聖書は終わらない。聖書に記されている事実は、与えられた知恵という恵みによって神により頼まなくなり、ほころびが生まれ神の注意勧告が下るまでになっていたということである。ここでダビデのように悔い改めるという道が彼にもあった。しかし、ソロモンはダビデと同じ道を歩まなかった。彼は悔い改めることはなく、是正しなかった。だからこそ、この先の聖書を読んだことがある方はご存じのように、ソロモンを含めイスラエル民族は滅びの道を歩むことになるのだ。では、私たちはこの出来事どのようにして自らのものとして読み解いていくべきだろうか。私たち信仰者は神とともに歩むことを目的とし、その教えに生きるとき、社会で少なからず評価を得たり、地位など何らかの恵み、祝福を得たりすることがある。そのような祝福は現実の繁栄につながっている。だからこそ一歩考えを誤ると、その繁栄を自分の力で得たものとおごり高ぶりやすい。または、与えられた賜物が神と自分との距離を引き離すものになってしまうことがあるのだ。例えばソロモンの「知恵」と同じように、人より優れた能力を与えられたとしよう。もちろんその人の努力という部分もあるかもしれないが、一面神から与えられたものによってその力を成長とともに得たとしよう。それは神とともに歩む中で用いられれば、聖書の知識を覚えられることや、それを用いて人に教えるということができるものになる。しかし、ひとたび、その知識を社会で生きるためにと自らのためにのみ用いるようになったらどうだろう。社会でよい地位につき、多く献金するということを選ぶ人もいる。確かに、それを実行し、神とともに歩めるならよい。ただ、そのために、「日曜日の礼拝や集会を守れない」「仕事のために教会の働きに参加できない」ということが起こってきたらどうだろうか。これはそのような選択をする人を誤りだという話ではない。ただ、賜物を持つがゆえに広がる選択肢は時に私たちを神から引き離すものになりうるということを話しているのである。だからこそ、必要なのは神への感謝や、畏れとともに歩むことであり、神に与えられた恵みと祝福を霊的なものによって維持するということである。ソロモンは神の祝福、恵みによって得た国の繁栄、平和を維持するために「知恵」に頼ってしまった。それゆえに神から離れたのだ。では、維持するために必要な霊的な行為とは何だろうか。それは、聖言や祈り、讃美、礼拝である。それが、私たちに必要な神との関係を密にし、また、神と同じ価値観、霊的価値観を得ることや、維持することにつながるのである。そして、より霊的価値観の維持を行っていくために必要なのは親愛である。一番近くにいる伴侶者や家族との霊的交わりが豊かになされなければならないのである。そうでないと、多くの問題が引き起ってくる可能性があるのだ。
以前、老牧師はこの記事を取り上げ、「ソロモンはどのようにすべきだったか」ということをピックアップし語っていた。ソロモンは豊かで盛りの時期に外国の妻など多くの罪の種を抱え込んだ。危険なものに対処し、その存在に注意できるうちは良い。しかし、老いたときにコントロールが効かなくなってしまい、それが滅びを招いたことを語っていた。自分自身をとらえ、買いかぶることなく、恐れていく必要があるのだ。そのためにはだんだんと年老いていく自らを考え、吟味していかなければならない。
この後のイスラエルに下る神の怒りはその鬱憤を晴らすために行われたものではない。私たちは人間に過ぎないという現実を示すためであった。これだけを聞くと人間の存在価値が限りなく低いと神が思っているように聞こえるかもしれないが、そうではない。人間に過ぎないという事実を前にしたとき神との関係が豊かに築かれていると、その責任の重要性と価値を認識できる。つまり「人間に過ぎない私でも神は私を認めてくださり、責任を預けてくださっている。こんなちっぽけな私を愛してくれる。だから神とともに歩もう」という考え方になる。しかし、一方で神との関係が正しく行われないと、「どうせ私たちが何をしたって神の力にはかなわない。神が力を与えてくれないから、私にはできない。私なんてちっぽけな人間なんだから」というような考え方になる。これでは、神から与えられた責任を果たすこともできない。だからこそ、私たちの信仰はその責任に対する姿勢によってはかられるのだ。神はそのような「神」と「人間」との契約関係を通して、私たちの存在価値を示し、悔い改めを迫っておられるのである。
もう一つ書かれている事柄として、神が私たちと交わりを持たれる際には召し(目的)を持って臨まれているということである。人格と戯れるために行われるのではなく、目的を果たすために私たちと関わられるのである。ということは私たちには神が望まれる道や達成すべき目的があるということだ。だからこそ、一面そこには力が与えられる。にもかかわらず、道を見失ってしまうことや、自分を中心に置いた考え方に変わってしまう人間の弱さがある。神の恵みと救いは神とともに歩むときにそれとなる。しかし、そこから離れれば、本来得られるはずのものまで失ってしまうのだ。だからこそこの書は私たちが恵みや祝福に溺れてしまわないようにと注意を促しているのである。


Q:今日のところで、ソロモンは神に知恵を求めて、知恵を与えられたにもかかわらず、年を重ねる中で神の道から外れてしまったことをお聞きしましたが、どのように警戒をしていけばよろしいでしょうか.

A:老いそのものに警戒していくことが重要である。また抜本的な問題として、恵みや祝福が神からくるものであると理解していくことの重要性も忘れてはならない。日々の中で神の導きを信じて行わせていただくということがある。困難に思えるところに挑戦していく。それは失敗というリスクを抱えている。しかし、それを信仰のゆえに選択するということができるのである。しかし、それは一面そのような困難を乗り越えられたとき、それを自分の実力であると考えてしまいやすい。そうならないためには、自らに与えられた祝福、恵みを、祈り、感謝し、表現する必要がある。表現するとは、神との結び付けをしながら、そのことを理解し、共有しあうことである。それを行っていると見ている世の人にも良い証しとなる。なぜなら、神の御力を表すということだけでなく、その祝福の成果が神に帰属するものであることをはっきりさせることができるのだ。世の人は神を知らないゆえに、その人自身の行いを賞賛する。しかしそのような賞賛は恵みや祝福が自分の力のゆえに与えられたと考え違いしやすい。また、業績が上がってそれによって祝福を受ければ、裕福になる一方で任せられる仕事も増えてしまうという可能性がある。それは先ほど語ったように、私たちの霊的交わりを妨害するものにもなりやすい。だからこそ、注意を払っていく必要があるのだ。


Q:先日の祈りの時に詩篇80篇に「あなたの民の祈りに怒られている」という表現があったのですが、神が祈りに対し怒られるということもあるのですか。

A:詩篇が示しているのは、神との乖離を自覚しなければならないということである。それは、私たちの祈りが、ご利益宗教のようなものになり、自分中心な考え方に偏り、神のご意思や価値観と一致していないということである。私たちが信仰を全うしていくうえで重要なのは真実な悔い改めができるかということである。  それはイエス・キリストが大切にしたものである。人間は知的に理解することはできるが、贖い主イエス・キリストの存在を最終的に選ぶことができるのは信仰によってのみである。キリストの存在と、十字架での贖いの死、そして復活を信じ、自らの罪がその死によって贖われたと信じ、悔い改めることでのみ私たちは救いに至るのである。そしてその私たちの信仰は悔い改めによって生まれる何らかの結果、つまりは「結実」によって明らかにされていくものなのである。だからこそ意味が見出せる結果、つまり「実」を意識していくこと、悔い改めによって何が変わったのかということを捉えていくことが大切なのだ。悔い改めが「神よ悔い改めるのでどうにかしてください」というような、自分の目的を果たしたいがために行われるそれでは意味がないのである。そもそも私たちが出会う困難とは、神が許されているものである。そのような環境で私たちが成長することを神は望んでおられる。神に祈り、より頼むことや、自らの悔い改めを行うことは、何もしなくてもよい手段ではない。むしろ、神が整えられた困難という環境の中で自らの取り組み方に怠惰な姿勢はないか、努力できているか、主の前に真実に歩んでいるかをもう一度見つめ直しながら、成長していくことなのだ。そして、そのような取り組みの中で収穫を得ることができたなら、それは神の前に信仰が全うされているという指標になり、十分に感謝とともに、証しするべきである。また、その与えられたものの中から神にお返ししていく部分も必要なのだ。そのようなことをそれぞれが真実に取り組んでいるかをよく考えていかなければならない。また自分で考えるだけでなく、さらに誰かに客観的意見を聞くとよいだろう。そうすれば、信仰を正しく確立していくことができる。そして、その意見を聞く誰かは自分の好まないことをいうような人にするとよい。あなたの好まないことをいう人とはつまりあなたの思うようにではなく、真実を語ってくれる人だ。だからこそ、あなたはそこから改善点を見出すことができるのである。


Q:先日のメッセージで価値観の変革から構築ということが語られていましたが、「変わる」ということよりも「構築する」という営みのほうが重要であることを感じました。構築するうえで大切なこととは何でしょうか。

A:そこから語りたかったのは価値観を長く維持していくことの重要性である。得意な人にとっては相手に合わせてコロコロ価値観を変えていくことは簡単である。価値観の「変革」とは旧態依然、つまりは「凝り固まった価値観によって少しも進歩や発展がない」人に対して必要な取り組みである。ならば、進歩や発展のある建て上げられた価値観ならば変革の必要はない。だからこそ、そのような価値観を「変革」を経ながら、「構築」していくことが必要なのである。しかし、それを作り上げていくためには様々なことに挑戦していく必要が出てくることや、時には構築を邪魔するものが出てきてしまうこともある。そのような日々の中にあっても固く倒れない霊的価値観を構築していくことが必要なのである。そのためには、社会や誰かと対峙し、戦っていく必要がある。それによって自分の中に進歩や発展を引き起こす価値観の土台が築かれていくのである。
 私たちに神は御心や召しをもって表れてくださっている。この信仰は私たちの代で終わらせて良いものではなく、子どもたちやその先に続くものとなるべきだ。信仰の継承とは自らの考えを含めて、誰かに築き上げたものを教えて守っていくことが大切なのである。だからこそ、信仰の姿勢をどのように築きあげていくかということが重要になる。あなたは礼拝が2週間空いたとき、日常を過ごすのがつらかったと語っていた。実際霊的糧は重要である。しかしそのことに多くの人が気づかない。むしろその休みの期間を責務から解放され、自由にしていい時間として喜ぶのだ。しかし、あなたはそのことに気づくことができた。礼拝式の重要性を知るからこそ、そのために備えをすることができるということだ。それは、態度や、姿勢が変わるということにつながり、取り入れられる糧の量や質が変わってくることにもなるのである。それによって私たちはこの世の中にある、私たちを信仰から遠ざける存在と戦っていくことができるのだ。だからこそ霊的な営みの価値をよく考えていかなければならない。戦えなければ逃げるしかない。それは自分を甘やかすことであり、それによって被らなければならないこと、信仰を継承する相手がいないということや、そもそも、自らの信仰が成り立たず、維持することの意義を見出せないという問題が出てくるのである。


Q:今日の11章の中でダビデに免じてという言葉多く語られていますが、これは執行猶予期間というとらえ方でよろしいでしょうか。

A:言葉をどのように当てはめるかということはあるが、事実これは猶予、神の哀れみである。それは一面、神への侮りにつながることがある。「私は裁かれない」という状況はいよいよ離れていくきっかけになりやすいのだ。怖いのは、ソロモンのように老いとともにそのような部分が如実に表れてしまうことである。老いても自分でそのようなことは面倒見られると思うことは大きな過ち、勘違いである。本来は自分と同じ信仰を継ぐ者にケアーしてもらうことであり、他者によって是正される必要がある部分なのだ。しかし、この関係は愛がなければ成り立たない。愛をもって育てた自分と同じ信仰をつなぐものだからこそ、同じ価値観をもって老いゆえに足りない部分を補い、是正し助けてくれるのだ。愛し育てるからこそ、その愛に応えてくれる存在を生む。だからこそできるうちにその関係を築くことが重要である。
 猶予の話に戻すが、すぐさま裁かれても仕方がない状況で猶予を受けていることを感謝して受け取らなければならない。神からの愛と、憐れみが豊かであることを自覚する必要がある。神は事実ダビデとの契約を結ばれ、彼の子孫から恵みが全世界に及ぼされることを約束されていた。神はどのようなことがあっても、その約束を覆される方ではないこともここに表されているのである。男性は戦い抜くために信仰が必要であり、女性は特に愛する者に対する愛を全うするために信仰が必要であると私は考える。性で分けるべきではないかもしれないが、このような性による差が少なからずあることも考えていかなければならない。しかしそのすべては、神を信じ、畏れて歩むという共通した価値観の中で行われているのである。その中で、私たちは愛するものを育みながら、日々を戦い抜いていくからこそ、自らの信仰を最後まで全うできるのである。


Q:列王記Ⅰ 11章のなかでほかの人が自らの利益や果たすべき目的のために敵対する中、ヤロブアムが敵対する理由が、神から導かれた正当なものであることが語られていますが、これはどのようにとらえるべきでしょうか。

A:ソロモンが神から離れてしまったゆえにこのようなことが起こってきた。神の前に真実に歩まなければ、何らかの形で滅びが起こってくるのだ。それは正当な理由があるものもないものも、さまざまである。ヤロブアムは神の預言者が来て、北イスラエルを受け継ぐものとして、神から選ばれたと語られている。そのまま彼がダビデのように神の前に歩んだならば、彼は大いに祝福されることが約束されていた。しかし、彼は愚かにも、その神の言葉ではなく「民が礼拝するためにエルサレムにある主の家に行けば、エルサレムにいる前イスラエルの王ソロモンの子レハブアムのほうにその心が移ってしまうかもしれない」と勝手に考え、恐れ、ダンとベテルに金の子牛の像を建てて、民がエルサレムに行かないようにし、偶像を礼拝させたのである。ソロモンもそうだったが、神によってするのではなく、自分の思いで行っていくことが彼らの過ち、罪につながっていったのだ。異国の社会との平和の一方で他宗教と迎合してしまったゆえにこのような過ちが起こってきたのである。当時の彼らは直接神から語られることや、預言者を通してその言葉が語られる。現在ははっきりと神の言葉が聞こえるわけではない。しかし、それは説教や聖言、讃美、祈り、周りにいる人格などを通して確かに語られている。だからこそ、そのような言葉を神からのものと「受け止め」、そこで終わるのではなく、さらに、従い「行う」ということが重要である。
ある兄弟が以前車を買った。もともとの提案では、新車を買う予定だった。しかし、彼の父親から家も買って、新車まで買ったらあなたには大分すぎると言われ、その言葉に従って中古を買った。彼は十分に働いているから買えないわけではなかった。しかし、彼の父親はその部分に注意を払うべきだと語ったのだ。それは「働いてお金があるからなんでもかんでも使ってはいけない」という考え方であり「身の丈に合った生活をおくることの大切さ」を彼に語ったのだ。それは彼の父親が「自由に思い通りにできる」という部分に恐れを見出し、彼に助言をしたからだった。その兄弟はその助言を聞き、中古の車を買った。何度も言うが、決して買えないわけではない。しかし、彼は父親を通して語られた助言に従い確かに実行したのである。
 話を聖書に戻していくが、17節でハダデを含めたエドム人はエジプトに逃げたことが語られている。エジプトとイスラエルは同盟関係だった。ということは、反乱を起こしたハダデたちをエジプト側はイスラエルに引き渡すべきであった。しかし、エジプトの王パロは引き渡すどころか、家、食料、土地を与え、さらには王妃の妹を妻として与えている。これによって一見うまくいっているように見えたソロモンの他国との同盟関係が本当は成り立っていないということが分かるのである。人間の考えは愚かで足りないものであることをよく理解していかなければならない。では私たちに必要な真理はどこにあるのだろうか。
 私が子どものころ、教会で勉強を教えてくれていた方がいた。その人は私にドリルの範囲を指定し、家で勉強してくるようにと宿題をよく出した。しかし、私はそのドリルを解くのではなく、後ろについている解答を写していた。それではもちろん意味がない。同じ問題を目の前で解くようにと言われれば、もちろん解けない。答えを知っていても、どうすれば、その答えにたどり着くかを学んでいなければわからないのだ。これは信仰生活もそうである。
 解答を得るだけでは人は育たない。問題に取り組み続けなければ本当の意味でその人は真理にはたどり着かないのだ。神は御旨を示されるが、それは取り組むために困難な道である。しかし、だからこそ、成長できるのだ。ソロモンの知恵は確かに大いなるものであったが、それを活かすには神を畏れて生きるということが前提として必要だったのである。私たちも同じである。それが欠けるとき、強く立っていくことはできないのだ。あなたにもなお取り組み続けてもらいたい。

 今晩の学びも神が十分に私たちに必要なことを語ってくださったと感じる。尚、このことを自らのものとしてこの世を生き抜いていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)