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Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-140  —

山本 咲


列王記Ⅰ 10章

 引き続き、ソロモンの王国について彼の知恵を含めた繁栄が語られている。代表的な話はシェバの女王が彼のもとを訪れたというものである。彼女はバルサム油と金と宝石を献上したがその目的はソロモンの見極めである。彼の知恵を含め、その王国を見ることで、図ろうとしたのだ。当時様々な形でこのようなことが行われたが、聖書記者たちがその中からの一つとして外交について語ったのである。これによって彼らが書こうとしていたのは神を信じ生きる者たちが、与えられた知恵、祝福によって世界にその神の姿、栄光、力を示していたということである。これはサムエルの時代から彼らに引き継がれてきたものなのだ。そしてその指標として彼を評価した人物にシェバの女王を上げた。これは他国が見て分かるようにと現した部分なのである。直接相手を評価できない場合、私たちは誰かがした評価によってその存在をはかる。そして本来は同じような経験や状況があってこそ相手を正しく評価することができるのだ。私たちはニュースで取り上げられるスポーツ選手の評価は知っているが、その功績がどれほど素晴らしいかと正しく認識しているだろうか。多くの場合は請け売りである。そのような評価ではない、正しく見極められた評価が必要だったのだ。だからこそ、このところではシェバの“女王“という同じような立場にある人物が下した評価が取り上げられたのである。ここで正しく評価がなされたことで、神の栄光やその力、繁栄があらわされたのだ。彼女に身近なのが多神教の考え方だった故に、唯一真の神という捉え方ではなかったが、確かにイスラエルの背後におられる力ある神を認識したのだ。聖書にはこのように、主観的な評価ではなく、事実の列挙によって読む者たちにその評価をゆだねている部分がある。今回も、確かに豊かさがあらわされている部分であり、神の栄光があらわされている事実が見える個所ではあるが、同時にそれを私用に使っていないか、神の国のために用いるはずの繁栄、知恵を乱用していないかという部分が示されていることも感じられる。神が何を語り教えたのか、旧約はとくに律法という神のおきてのもとにすべてのことがらが行われている。申命記にモーセを通してイスラエルが王を持った時、王はどうすべきか、どうしてはいけないかと語っている部分がある。今日開いた個所は祝福の中でソロモンが逸脱してしまっている事実を示すかのようであった。繁栄を自分だけのものにしてはならない。恐れ遜らなければならないことがなお示されているのだ。
シェバの女王は多くの賢人をそばに置いていただろう。それでも彼女はソロモンのもとを訪れた。聖書には「心にあったすべてのことを彼に質問した」と書かれている。もしかすると人間の死、生、神の国、世の中で答えの出ないものもこのところで問いかけがなされたのではないだろうか。そこで彼女の疑問はすべて解き明かされた。わからなかったことに解答が与えられたことで、彼女は帰っていったのである。もちろんその解答のすべてが正解ということではなかったかもしれない。ただ、彼女の納得がいくものであった。だから、彼女はソロモンを高く評価し、賛辞と、多くの貢物を彼に送ったのである。このようにして、ソロモンの知恵が当時の知者と比べ特別だったからこそ、それを周りは価値高く思っていたのである。神が与えてくださる知恵をもって発展していくこと、神を尊びながら恐れ遜っていくことが重要なのである。ソロモンも、私たちもそれは同じであり、同じように、行っていかなければならない。私たちはソロモンのこの先の人生を知っている。それを見るときに、どのように歩むか悩んでしまうものである。しかし、なお神を畏れ、正しく、真実に与えられた救いと恵みを歩んでいきたく願う。


Q:教会の中にいるときと、外にいるときでかかわる人との価値観の違いを感じています。ただ同時に、私も昔はそうだったと思い出されました。今は、子どもをどのように育てていくかなどを含め、多く価値観が変わっているように感じます。

A:信仰者が実践として問われ続けている現実だと感じる。今は多様性の中で、多くの考え方、選択がある。その中で信仰者が神の教えに倣い、選択して豊かになったとき、そこに信仰者としての価値観を見出すのである。子どもを中心とした生活にしていくか、それとも外の世界に行って富を得ていくか。もちろんそのような単純な選択ではないが、その中でリスクだけを考えるのではなく、様々な要素の中で子どもとの生き方やかかわり方を選んでいくのである。この教会の中では特に共通した認識がもたれている。厳しさに対する取り上げられ方、子どもに対する強要の仕方などがとくにあげられるだろう。厳しさや、強要というと、今は敬遠されがちであるが実際はとても重要なのだ。世の中が言う良い話を聞いて納得していた部分が、現実的に自分が育てることや、その先を考えるうちに、厳しさや訓練の必要性を認識していくのである。聞こえの良い話の通りに行って出された結果の責任はだれもとってくれない。自分でその責任をとるしかなくなる。しかし、教会、神とともに生きていく中では神が責任を共に負ってくださる。人の言うことをやたらと聞いて、子どもを腐らせてしまうことを恐れていかなければならないのだ。神を畏れないゆえに人間が腐っていってしまうことを聖書は危険視している。信仰を基盤において、恐れ、歩むからこそ、生きた関りが行われていくのである。


Q:私は今までソロモンの栄華は神の祝福だと思っていましたが、今日の話を通して、それがすべてではなく、受けた祝福をどのように用いていくかが重要であることが分かりました。

A:人間には完ぺきというものはない。だからこそ、私たちがこのような聖書個所をどのようにとらえ、自らに当てはめて考えていくのかが重要である。それはそんなに単純なことではない。人間は勘違いしている生き物なのだ。自分は整っていると思いやすい。しかし、実際は勘違いである。それは自分の認識をごまかしているというわけではない。ごまかしは一面その事実を理解しているからである。それから考えるならば、勘違いとは本当の自分を認識すらできていないのである。だからこそ、その勘違いに対して神のアプローチを通してそれを改善していくようにと示してくださっている。それなのに、そのことを受け入れないのは問題視されなければならない。勘違いや、知らないことに対して憐み豊かな神は直接的に罪に問われない。しかし、それが神からの何らかのアプローチによって語られているならば、それを聞かない私たちは罪に問われるのだ。信仰生活には当然、整合性が求められる。告白と実践に大きな開きがあってはならない。それらを牧師だけから語られるわけではない。もしかしたら、子どもを通して語られるかもしれない。私たちはそのような中で生きているのだ。私は聖書を勘違いして生きていましたとあなたは語ったが、その違いはあなたの信仰生活に何の影響があったか考えていかなければならない。勘違いの連続が起こってくると、もしかするととても大切なものを失うかもしれない。そこまで考えていかなければならない。先ほどの話ではないが、日々の生活の集約が神から示されたもので生きているかを考えていかなければならないのだ。そうでなければ、神の御旨から逸脱してしまうということが起こってくるのである。では、私たちの日々は勘違いや失敗がないかというと、そうではない。そういうことも起こってくる。ただ、その時にどのようにしていくのか、どのように対応していくのかを考えていくことが重要なのである。今年の礼拝の中では悔い改めの実という話を語ったが、働きや営みには実がならなければならないのだ。土地をふさいでいるイチジクの木に実が実るようにしていくこと、それがなされなければならないのである。 あなたも2人の子どもを救いに導いていかなければならないことを考えるならば、よくこれらのことを注視していかなければならない。勘違いを少なくしていくことはそのために大変重要なことなのである。


Q:先日「言い聞かせる」と、「叱る」のちがいってなんだろうと考えさせられました。食事中のお行儀が悪かった時に、注意したことがあったが、「言い聞かせるより、叱った方がいい」と祖父が言っていたのですが、そこになにが足らなかったのか気になったのですが。

A:おじいさんが何をもってそのように言ったのかは本人に聞く必要があるが、「叱る」とは、叱る側の怒りが重要であり、聞く側の恐れが必要なのだ。恐怖で人間をどうこうするのは良くないとよく世の中で言われるが、ある程度の恐れがなければ、過ちを注意して改善していくことはできない。相手の怒りの中に置かれるからこそ過ちを繰り返さない人は対策を考えるようになるのだ。子どもを恐れさせるということが重要である。神は怒られる方である。怒りは湧きあがるものであり、癇に障った瞬間に爆発するものだ。そういうものがないということは子どもに不足をもたらすものである。両親は役割分担としてはどちらかが怒り、反対側が慰めることで行っていくとよい。また、子どもが何も悪いことをしないという状況があるならば、逆に子どもの誘惑になるようなものをあえて作ってもその子どもが「叱られたことのないようないい子」にならないようにする必要があるのである。人間には多く怒りが存在し、それに太刀打ちできないと逃げるしかなくなる。そのようなものに対峙していく気力や知恵が必要である。いじめる人は嫌いな人ではなく、最愛な人の行為も時にいじめているように見える時もある。わかりやすく「いじめ」という言葉を使っているが、その認識を誤らないでほしい。それは、その子の嫌なことを時には度が過ぎるほど行うということである。筋トレは自分が疲れたからやめる程度では意味がない。それを乗り越えるほど行って初めて筋肉がつく。だからこそ、子どもに対してもあえて嫌なことを行うことで子どもの葛藤を引き出し、それによって対峙してみる必要があるのだ。私たちは子どもとの対峙の中でその行いを見極めながらも怒りを燃やしていかなければならない。そうでなければ、叱られたこともなく、打たれ弱い子になりやすい。もちろん、私たちはそのために子どもをよく観察し、子どもの苦手な部分や、弱い部分に注意を払ってアプローチしていく必要がある。そのことを通して、子どもは注意を受けても謙遜にその事実を受け入れられるものになり、現実を正しく見極めることができるのだ。必要以上のやさしさは罪である。それは子どもを甘やかし、その成長を妨げるものになることに気をつけていかなければならない。


Q:私もわざと子どもの嫌なことをするように実践しています。例えば、暗いところが怖いというのをわざとそこに入れてみたり、お風呂で泡が目に入るのが嫌いなのですが、わざと荒っぽく髪を流したりしています。そのようなことでよろしいのでしょうか。

A:以前箱根駅伝で有名な大学の練習風景がテレビで取り上げられていたが、30㎞走るという訓練の後、すでに疲労困憊の選手たちに向かってコーチがラスト3km走らせるというものがあった。そのコーチはそのラスト3kmを全力で限界を超えて走れるかというのが、実際の大会でタイムを縮める重要なカギとなると語っていた。それがいわゆる私たちの言う子どもにたいするテコ入れの部分なのである。別に限界を超えて行う必要はないのではという人はいる。しかし、子どもが普通に過ごせてしまう部分よりあと一歩努力や、頑張り、忍耐が必要になる状況を意図的に作ることで、その子どもが実際に何か乗り越えなければならない状況に出会ったときにあと一歩そうする力を発揮することができるのである。あなたの家系はどちらかというとその部分に得てである。しかし、強いる部分が得意ならば、反対側でそれに対する問題が生じる場合があることもあなた自身が理解しているだろう。だからこそ、あなたは自分が受けたものを反面教師としてとらえ、何を補っていったらよいのか考えていく必要がある。強いられすぎて嫌になった思いがあるのなら、どのくらいの加減が必要か、もしくはご褒美的なものがあればいいのか、言葉に表してその頑張りを認めていくことがいいのか、あなたがしてほしかったことを経験として含め、さらに反応をよく伺い見極めて、なお取り組んでいっていただきたい。


Q:「いじめる」ということによって得られる人生の豊かさって何ですか。

A:そのような営みをしているということに意味があるということだ。何度も繰り返すようだが、「いじめる」という言葉だけの雰囲気や主観で捉えないように注意していただきたい。そのような状況と似通ったものであることを言いたいのだ。その背後には必ず子どもに対する愛、信じて推し量っていく意図がなければならない。このことによって人格にアプローチしているのだ。ただ重要なのは受け売りを自分の中に入れながら、どのようにこの子と関わってみようか、成長に何をしていこうかと熟慮することなのだ。そこに重心が傾いているかということだ。価値観とはその重心の置かれている場所である。重心のかかっていない方が抜かれても転ぶことはない。しかし、重心が置かれている方が欠落すれば転んでしまう。「いじめ」ということを肯定しているのではなく、そのようなやり取りの中で愛をもって子どもとかかわるということの重要性を語っているのである。子どもは親によって大きく変わる。抜本的な問題はあなたの重心のかけ方が他に行っていると子どもから離れてしまうということだ。幼いうちは子どもも気づかないため、他に行っていても問題は大きくならないが、成長に伴って子どもはそのような親の姿勢を見抜くようになる。私の知っているある姉妹は娘に重心をかけたかったが、仕事が忙しくて十分にかけられないことを問題視した。その対策として、子供を潔く教会に預けるということを選んだのである。そのように、あなたが今、子どもと対峙していく中で、何が足りていないかをよく観察していかなければならない。あなたにその力がないと感じるならば、奥さんにお願いした方がいい。自分の重心がかかってない状況を指摘してもらうことや、改善点を探していくのである。そのなかで対策を練っていく必要があるのだ。もちろんただ、お願いねと頼むだけではいけない。夫婦ほどギブアンドテイクの関係はないと私は思う。ここがよく勘違いされやすいところであるが、家族ほどそのような相手をきちんと考えた対応を行っていくべきなのだ。家族だから許してくれるとなんでも甘えてはいけない。むしろ家族だからこそ、一番に愛し、何よりも大切にしていくべきなのだ。よく、会社で相手の望むことを把握するのは得意なのに、家族に対してはその能力を一切発揮しない人がいる。それはもったいない。家族こそ大切にすることで生まれる好循環があるのだ。何かをやって欲しいなら相手のして欲しいことをやらなければならない。必要以上にやって初めて相手がお返しを考えるようになるのだ。ただ、そのお返しは自分の足らないところを補ってもらえる重要な一手である。自分にできないところを何とかしてできるようにするには、相手のできないところの範囲で自分ができるところを補えばよい。そうすれば、相手も同じように返してくれるようになってくる。そこで初めて、お互いの間に利益が生まれる。それは互いを認め合い、満たし、よき関係を作る大切なかかわりなのである。先ほど語った姉妹は教会に娘を預ける代わりに自分が何か買い物をする際には同じようにその分を献金して、「先生方もどうぞ買ってください」と言っていた。正しくここでもギブアンドテイクの関係が築かれているのである。なおあなたも家族の中にあって夫婦のかかわり、親子のかかわりを十分に行っていってもらいたい。


Q:エペソ人への手紙3章13節の後半「私の受けている苦しみは、そのまま、あなた方の光栄なのです。」と語られていますが、どのような意味でしょうか。

A:この手紙はパウロが牧会者として、愛をもってエペソの教会に向けて書いたものである。この個所に書かれていることが人の営みの中には起こってくる。パウロはエペソを長く牧会した。教会の人々が信じてパウロを通し神とイエス・キリストに従っていくことができれば、それによってそこまでの苦しみから光栄を受けると語っているのだ。私は自分の説教を時々見返すが、私はあまり上手な説教者ではないなと感じる。確かに説教はしているが、それは説教と牧会は車の両輪である。どちらかというと私は牧会者であると感じる。どう違うのですかといわれるかもしれないが、語るというよりも、共に生きるということを重要視しているのだ。牧会そのものもコミュニケーションであるからこそ、相手の話を聞いて共に抱えている問題課題に取り組んでいくことを大切にしているのである。私はパウロと同じように「その人とともに生きる」という御用を行わせていただいている。問題に共に取り組み、その人の信仰を証言していくことが私の存在の意味なのだ。しかし、問題、課題は人生を生きる限りいつまでも出てくる。だからこそ、一つ終わってそれでよいではなく、共にその信仰生活を生き続けていくことが大切であると考える。今は世の中に多く考えが発信されている。だからこそ、それに左右されてしまう人も多いし、「先生私はこのままでいいです」と言われてしまうこともある。また、牧会者のほうも、その働きをしなくても、十分と言われてしまうし、その分の報酬が報われているとは限らない。だからこそ、余計に牧会は難しくなっているように感じる。しかし、召されたものとして、なお私はこの神よりゆだねられた教会とともに生き、牧会していきたいと感じている。それによってこの教会で生きる者たちが光栄を受けることができたのなら、それこそ私の幸いなのである。


Q:先日のメッセージで革新ある進歩ということが語られていましたが、信じ実行していくことと、それによって神がしてくださった御業を証していくと語られていますが、言葉の行き違いや、多くの価値観の中で相手に語ることを恐れてしまうことがあります。どのようにしていけばよろしいでしょうか。

A:証というのは多くの人の前で証しすることだけが重要ではない。家庭の中で証していくことも重要である。夫婦でも、家族でもしていくことが必要なのだ。神を畏れるということはどういうことかと考え、人に表していくかという場所が家庭である。一番その証を聞くのは子どもたちである。それによって素晴らしいこと、価値があること、つまり、霊的価値観を築いていくことができるのだ。そのような信仰者の姿勢は個人的なコミュニケーションの中でも十分に証される。だからこそ自分の行ってきたことを顕示する場所を設けていくことが必要なのである。また時には言葉を交わしていく中で勘違いを是正される時もある。神はそのような中に真理を映し出しているからである。証は受け取り方を間違えると、自慢話に聞こることがある。しかし、正しく受け取るならば、その中に語られている神の豊かな恵みと真理が受けられるのだ。もちろん精査をする必要はある。年齢に合わせてだんだんそれができるようになるだろう。だからこそ、相手を見極めつつ、恐れずになお語っていくことが必要だろう。まず、家族の中でぜひ語っていただきたい。


Q:日常的な中で証しするというのはどういうことですか。 A:私たちの家庭ではそのような場がたびたび食事の時間に持たれている。自分がその日に経験したことや、考えたこと、そこに神がどのように働かれていたかと霊的に受け取ったのかと語るのだ。他人に聞かせる部分ではないことも多い。しかし、心を割って話ししながら、その中で相手方の反応を見てみたり、整合性を確認したり、熱心に意見を交わせるかが重要である。これは先日娘たちが夕食の席で語っていたことである。その日娘たちは二人である映画を見に行っていた。それは地震について語られたものであった。その時に二人は東日本大震災の経験を改めて思い出したと語っていた。当時娘たちは中学校3年生と小学校6年生だったが、その映画を見るまでどちらかというと震災に対し、あまり嫌な思い出がなかったらしい。しかし、改めてその映画を見たときに、思い出したくない嫌な記憶というものもあったことに気づいたというのである。ただ、彼女たちが言いたいのは、その嫌な記憶もあったという部分よりも、そのために親である私たちがどれだけ自分たちに配慮してくれたかに気づけたということであった。当時、私たちも知恵を出しながら、家庭に不安な空気が漂わないようにしていた。「いつもと違う」ということをネガティブな特別ではなく、ポジティブな特別のように扱ったのだ。例えば、ガスが止まった際の調理のときにガスが止まったからこのような料理にするのではなく、今日は特別にこの料理にしてみたと違う調理法で食事を作ったりしたのである。また、多くの人が教会を訪れ、その中で助け合い、恵みを受けた事実が彼女たちの心に良い思い出として残っていた。だからこそ、今回の映画の中でそのマイナス面を強調されるまで嫌な思い出が出てこなかったというのだ。そして彼女たちはそのことに気づけたと私たちに語った。私たちはそれを「神がそのように私たちを守ってくださったこと」そして、「そのようにできる導きが与えられていたこと」に結びつけた。加えて、そのように気づかせていただいたのだと互いがその出来事を理解した。ここでそれは証になったのである。このように私たちは時間を作って互いに抱いた思い、霊的経験を共通理解していくことが必要になる。それは互いの信仰的価値観を作り上げることはもちろん信仰を強めるとても重要なもとなっていくのである。なお、家庭の中で取り組んでいっていただきたい。 今月もよき学びの時が与えられたことを感謝いたします。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)