同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-142  —

山本 咲


列王記Ⅰ 12章

 ソロモンの代が終わり、レハブアムの時代がやってきたことが書かれている。レハブアムはダビデから数え3代目となり、彼にとっては手に余るような状況でことが進む中、受け継がなければならなかった。ソロモンはダビデから良い遺産を受け継ぎ王になったが、ソロモンはレハブアムにそれを残すことができなかった。ソロモンが若いうちには知恵を用いてどうにかしていた問題が取り残され、レハブアムに譲られてしまったのである。確かに罪の咎はその人本人のものであるべきだが、子にまで影響を及ぼしてしまっているように思われる。それは周りと何の関係もなく、つながりもなく人の生活が成り立っているわけではないことの表れである。その人の気質の中に両親から受けた何らかの影響があり、成長の過程でそれが改善されなければ、それはそのまま残されていくのである。そして、いつかその人も伴侶を見つけ、結婚し、子を育てる時代が来る。するとそのような問題が残されたままであると、その影響はその子にまで続くのである。これが悪しき継承となる。継承というと良いものの印象が強いが、それは当然良し悪しは関係ない。レハブアムはソロモンの悪しき部分を継承してしまったのである。
シェケムを訪れたレハブアムの前に、民がその苦役を軽くしてもらえるように願い出たとき、彼はどのように対処した方がいいかと長老たちに尋ねた。それに対し、長老たちは民の願いを聞き入れるようにと助言をする。これは一面長老たちが、レハブアムを王として民に認めさせるようにお膳立てするためだったという背景がある。本来この長老たちはソロモンの時代に彼とともに生きながら、彼が誤った道を選び取っていかないように止めるべき役目を担っていた。しかし、彼らはそれを果たすことができなかったのだ。それゆえに繁栄も共にした一方で、崩壊の時も味わった。だからこそ、彼らはレハブアムに助言をすることで代替わりとともにその暴政を止めようとしたのだろう。しかし、彼らはレハブアムを掌握することができなかった。それゆえに、結局レハブアムは彼らの助言を聞き入れなかったのである。
神を信じるイスラエルの王は特に神を恐れ、畏み、仕えるべきであった。そして神を畏れるがゆえに、民に仕えていくことを選び取っていくことが望まれた。そこにもう一度戻るべきであった。しかし、彼は神を畏れるよりも、自らの思い通りになることを望み、長老たちの助言を聞くのではなく、自分と育った同じ価値観を持つ者たちの意見を取り入れたのである。それも合わさってイスラエルはどんどんと神から離れてしまった。彼らが心から悔い改めて仕えるならば、神は赦しをもって解決に導かれただろう。しかし、神に仕えきることができず、神を蔑ろにしてしまったのだ。それゆえに王国は分裂していく。完全に神を捨てていないゆえに、北王国イスラエルとの戦いをとどまったが、それでも彼らはすでに重要な点を逃してしまっていた。だからこそ、憐れみのゆえにさらなる混乱には陥らなかったものの回復までには至らなかったのである。
また北王国イスラエルの初代の王となったヤロブアムは「このままでは民は自分を殺すかもしれない」という誤った恐れのゆえに、ダンとベテルに金の子牛の像を置いた。人間が自分を中心として考え、行動するとき、それは愚かにも神に対する反逆的なものになってしまう。彼もそうだった。このようなことが起こるとそれは時代が悪いと多くの人が言う。しかし、それは言い訳であり、その責任まで誰かに転化していくことはできない。それは私たちも同様で人生を大きく狂わし、立ち直ることのできないものにまでなってしまうのである。結局、彼らは神に立ち返っていなかった。それゆえに彼らの歩みは日々崩壊へと進んでいくものになったのだ。
私たちはなお気を付けていかなければならない。神を中心に置き、神から離れないようにと日々を歩まなければ、いつの間にか自己中心的な考え方にとらわれ、誤った考え方や行動に陥り、罪を犯してしまうものになる。聖書で語られる「罪」には的外れという意味がある。人の評価という神の評価とかけ離れたもので自らの行動を判断してしまい、的外れな行動を起こしてしまうこと、それが罪なのである。良かれと思ってやったことが、神の計りでは罪であるということに気を付けていかなければならない。だからこそ、神から離れず、聖書が語る神の価値観の中で生きていくことが重要なのである。


Q:世の中には傍から見たら、祝福され、成功しているように見える人と神を信じていながら祝福されて見えない人がいます。私たちはそのようなことをどのようにしてとらえるべきでしょうか。

A:あなたは自分の問題としてどのように見極めていくかを考えていかなければならない。社会の動きや、信仰者の動き、あなたの身近な人や少し距離のある人、様々な人の現状を見ながらどう評価していくかを考えなければならないのである。最終的にそれをあなたが見たときにどう思うかが重要なのだ。富や地位を得ている人が本当に祝福されているといえるのか。神からの愛や祝福とはどのようなものだろうか。そこから結局自分は何を選び取っていくのか、何を大切にしていくのかと考えていくことが必要である。それは自分の価値観や生き方に影響を及ぼす。特にその人の価値観は無意識下でこそあらわにされる。普段はいくら取り繕っていても、無意識にぱっと出た言葉がその人の価値観を表してしまうものになるのだ。
例えばそれは自分の子どもの成功をどのように評価するかということに現れる。子どもの教会での働きを評価していれば子どもは教会で豊かに働くことを重要視するようになる。しかし、同様に学校での成績が良いことを評価していれば子どもはそれを重要視するようになる。つまり教会の働きについては何も言わないのに、こと成績に関してはよく口を出すなどというのが分かりやすい。子どもはそれで「親は成績がいいことを最重要視している」と思うようになるのだ。何を喜び、何を優先するかで大人は賞賛や叱責をする。それによって子どもの価値観は形成されていくのである。だからこそ、本当に大切なものは何か、優先順位を決め、よく自らの行動を確認していくことが必要である。そして、その順位を変えないように、日々意識していくことが大切だ。それは言葉にするより大変難しい。しかし、その価値観が、子どもの中に育まれていくならば、それはあなたの信仰を担保する存在にまでなる。なぜなら老いてあなた自身が自らの価値観を維持していくのが困難になってきたときに、価値観を一致させている子どもが、あなたの信仰を支えてくれるからである。
これから行っていくうえでも、自らの行動を振り返るとともに、子どもたちの様子もよく見ていくとよい。あなたの中で自然にやっていることが、あなたの子どもたちの行動にも出てくる。子どもがある価値観を形成していて、その中にあなたとの差異があるとするならば、それはあなたが自然に行っていたものが出ている証ということなのだ。
これからもあなたは戦い抜いていく必要があるだろう。その中で価値観を形成し続け、守っていかなければならないのだ。そうでなければ、本来必要ではない価値観があなたの中にも、子どもたちの中にも残るようになるのである。それはあなたが悔い改めようとも、子どもたちには残るのだ。
多くの人が信仰とは何か、信じることは何かと聞いてくる。どうすればできるのかと。ただ、私から言えるのは「本当に信じることに生きる」ということに他ならない。次々に起こってくる出来事、めまぐるしく動く日々の中に結局、神がおられるということを強く意識した生き方ではなくなってしまえば、世の人と何も変わらないことになってしまうのである。


Q:先日の礼拝の中で、イエス・キリストを誘惑したサタンのことが語られていましたが、ある程度の信仰を持たせていただいていても騙されてしまうことに恐れを感じます。それが子どもたちにも及ぶことが何より恐ろしいです。

A:子どもに対する影響の大きさを視野に入れて考えられるということは大切である。しかし、それを意識して大切にしている人は少ない。私たちの教会は特に「あなたの子どもを見なさい」ということを語り続けている。それは一方で時間の制約も出てくる上に、考えていかなければならないことや、視野を広く持つゆえに情報が多くなるところも出てくるため、事実大変な作業であることは間違いない。しかし、誘惑に対峙していくためにはこれらのものを大切にしていかなければならないのだ。
この集会一つとっても、仕事を終えて普通なら少しゆっくりできるこの3時間ほどの時をここに費やしている。しかし、だからこそ聖書で語られることと実生活とを結びつける学びができるのである。また、時々の集会出席をきちんと守ることは自らを騒々しい日々から解放し、もう一度、神に近づく機会を持つことができるのである。だからこそ、このような集会への出席を維持していくことが重要である。それによってあなた自身も、子どもたちも守られていくのである。


Q:先日の教会学校の時に「主につくものは誰か」を読み、そこから「クリスチャンは少し物事が良いことに動いたときに、主が働いてくださったと思いやすいが、困難を主とともに歩むという教えにとどまることが重要であり、恵みが当然あるということは人間の傲慢であるということを考え、神の恵みを享受しながらもその中で自らの是正を大切に、生きていくことが重要である」ということが取り上げられ、私もそのようにしていきたいと感じました。

A:是正されることが特権であるという事実を理解できるのは若いうちである。年を重ねていくとそれを受け入れることができなくなる。そうなると、あとは逃げるかごまかすかしかなくなってくるのだ。ではどうすれば是正を受け入れることができるだろうか。それは何かを動機とすることである。「神を愛すること」「隣人をあなた自身のように愛すること」その二つを守っていくことを動機とするとよい。相手を愛しているのだから、その叱責を受け入れていこうと考えることや、先ほどの子どもを守るということにも繋がるが、愛する者たちを守るために自らを戒めていく必要があると感じるならば、是正され、改善していこうと努めることができる。またイエス・キリストがその命を捨てて愛してくださったということを受けて、その考えが自分の中にあるならば、周りを愛するためにと自らをよりよくしていこうとすることができる。しかし、それをお題目として結局「愛すること」が人間操作術のようになっていると自分を変えることなく、逃げるかごまかすか、相手を打ちのめすかそのようなことでしかものを動かしていくことができなくなるのである。「主につくものは誰か」すなわち、「主のそばにいる者はだれか」というこの言葉の通り、主のそばで生き、その教えを守っていくためには是正されることが必要なのだ。物事はすべて神の許しなしには行われない。ならば、起こってきた困難は神に何らかのお考えがあるということである。つまり、神は私たちがその困難を通し成長が与えられることを望んでいるのだ。そして、私たちならばできると信頼してくださっているのである。だからこそ私たちはなお取り組み続けたい。
あなたが今それを意識し、遜る中でこれからもチャレンジしていくことが重要なのだ。挑戦し続けるならばそれが実行される。しかし、挑戦もできないならば年齢を重ねたのだからしょうがないと思うしかない。あとはもうどうすることもできない中に陥っていくしかないのである。


Q:ルカの福音書12章49節を読んでいて、ここに「火」ということが語られていたのですが、願われている火とは何でしょうか。

A:聖霊のことだ。使途の働き2章3、4節にはペンテコステの時に「炎のような別れた舌が現れて一人一人の上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、、、」と語られている。イエス・キリストは人の罪を負って十字架で死ぬことを通して、人々に悔い改めを求める火を投じたのである。だからこそ51節に書かれるようにイエス・キリストを受け入れるものと受け入れないものとの分裂が起こってくるということを挙げているのだ。価値観が違うということは分裂を引き起こす。私たちは「差別」を避けていかなければならないが、「区別」はしていかなければならないし、私たち自身が他者から「区別」されることを受け入れていかなければならない。私たちの教会の中にも一面価値観の違いで関係が断絶してしまった事実がある。それは難儀な部分ももちろんあるが、その価値観の中に生きることを通して、自らの姿勢を明らかにしているのである。神を畏れ生きる者の立場として私たちはそれを守っているのである。悔い改めなくして両者が手を結ぶことはない。その立場を守るからこそ、私たちは地の塩である姿、世の光である働きを現していけるのである。その重要な塩気という部分が無くなってしまえば、私たちは外に投げ捨てられて終わる。
ある兄弟の家庭集会ではお祖父さんの話題がよくでる。お祖父さん、お祖母さんとの関わりや起こってきた出来事を分析しながら、価値観を一致させ、その考えを受け入れて大切なものを守っていくかということを話しているのだ。
一時期私が副業の仕事で忙しかった時、夜9時まで家に帰れないという時があった。その時、子どもたちをしつけたのは私の父である。父と私の価値観は一致していた。もちろん父は私の代わりに子どもたちをしつけなければと意識していたわけではない。ただ、子どもたちの無礼な態度や、しつけを必要とするような行動が癇に障ったのだ。だからこそ、子どもたちを叱り、注意し、接したのだ。それゆえに私の子どもたちは私が抜けた部分を父によって埋められたのである。
同じようにその兄弟がおじいさんおばあさんによって生活の一部を守られているのは、彼が家を買い、両親との同居をしたゆえに起こったことである。多くの人格がともに住む三世代の同居とは簡単なことではない。しかし、そこで育まれることは大変幸いなかえがたいものなのも事実である。


Q:子どもたちの自立ということを日々考える中で、その行動を注意すべきか、彼らに任せるべきかと考えてしまうことが多々あります。彼らは嘉納先生をはじめ、先生方にも関わって頂いて、兄弟姉妹にも関わっていただいているということもあり、もう親としていつまでも子ども扱いしていてはと思うことがある一方で、ただ親だからこそ言った方がいいのかと思うこともあります。そのように考えているうちに疲れてしまう日々もあってどのようにしていけばよろしいでしょうか。

A:それは老いである。私は最近老いによって新しい映画を見られなくなった。刺激のあることや、展開が分からないというものをハラハラしてみていくことができなくなったのだ。だからこそ、展開がすでに分かっているものを見て楽しむようになった。これは若いころにはわからない感覚である。子どもの反応や起こってくる物事を心配してハラハラしているから疲れるのである。私としては自分の手が届かない範囲や、得意ではない部分は夫婦の中で守備範囲を分けていけばいいと思う。私も妻がある程度の守備範囲を持っているため、自分はその部分に手を出さないようにして、任せるようにしている。それによって自分の負担を軽減しながら、自分が負うべき範囲、責任を守るということでぬけ穴を出さないようにしているのである。あなたはどちらかというと色々なことを心配してしまう人である。それを直したいと思うかもしれないが、ネガティブ思考は良い面もある。一流の選手はポジティブで試合に臨んでいるかというとそうではない。どちらかというと、ネガティブにこうなったらどうしよう、相手がこうしたらどうしようと考えていることが多いと最近テレビで話していた。そうやって何パターンも考えているからこそ現場でパニックになることを防ぐことができるのだ。プロのアスリートを分けるのはそこである。最悪の状況に陥ってしまったら回復できない。だからこそ、ネガティブ思考の中で様々な状況をイメージするのだ。それによって、パニックにならず最小限の被害で問題を越えていくことができるのである。
子どもたちとの関係について、私は全体的なコミュニケーションの時間を増やした方がよいと思う。キャッチボールのようにまず普通のやり取りですら十分にできていないのに急に早い直球を投げれば取れないに決まっている。何回かやり取りを繰り返すことでとれる球が増え、時に鋭い球を投げても相手が受けとれるようになるのだ。だからこそ、とにかくコミュニケーションの時間を確保し増やす努力をする必要がある。その日のなんでもないような話でいい。そうしていれば、肝心な時にいつもと違うトーンで話を始めれば、相手もそれを感じて改まって聞く姿勢をとるようになるのだ。
芸能界でも仲の良い夫婦を取り上げると多くはコミュニケーションが十分にとられているという特徴がある。一般的にも言われていることだが、やはりそれは大切な時間として取得していかなければならない。親子も夫婦も日々のコミュニケーションによって関係が構築されていくのである。


Q:アブラハムとサラはイサクが生まれるという啓示を受けたとき、笑ったという出来事が聖書には書かれています。また新約の時代にザカリヤもバプテスマのヨハネが生まれるということを信じられなかった時、話せなくなったことが書かれています。突然に本来あり得ないということを言われたときに本質的なものが出てしまうと思います。どんなに信仰を持ち、熟練しても、その部分には弱さがあるのだと感じ、最終的には人間の限界を越えられないということを感じました。

A:先ほど挙げていただいたイサクやヨハネという子どもの問題は一般的に考えるならばまずできないという不可能な状況で告げられた出来事である。人間的限界が見えくると、人とは何者かということを私たちはもう一度考えさせられる。確かに信仰によって神はどんなこともなしてくださるという真理もあるが、一方でそれに取り組んでいく際のリスクや、複雑な思いを抱えているのだ。
私は家出をしていた時の自分の心の動きをはっきりと覚えている。それは冷静だったからである。人間の冷静さはその出来事を鮮明に心に記憶する。アブラハムの時代の出来事は口伝によって残されている。創世記はヨセフの時代になると急に鮮明に描かれるようになった。それはエジプト文化によるパピルスの普及で文字によって残すことができるようになったからである。ということは、アブラハムが心の中でつぶやき、サラが笑ったこの出来事は彼らにとって冷静に振り返れる出来事であり、指摘されてから思い直し、悔い改めた大きな出来事だったのではないだろうか。
私もその当時、イエス・キリストと全然関係ない世界に生きようとは思っていなかった。だからこそ、神と自分との関係を維持しつつ、自分の中である程度満足できる落としどころのようなものを見つけて、そのように生きたいと思っていたのだ。しかし、そこからもう一度私はここに戻ってくることができた。神と自分を両方保つような中途半端なものではなく、神とイエス・キリストを一番におく生き方にもう一度戻していただくことができたのだ。私がこのように語れるのも、あるところに行くとその時の自分をもう一度見つめて思い返すからである。あなたも同じである。そのようなことを考えるようになったのは、あなたが十分に自分を見つめなおしているからなのだ。なおそのような時間を大切に持っていただきたい。そのようにしているからこそ、誰かが何かを聞いてきた時に信仰者として語れるようになるのである。
マルコの福音書14章51、52節に裸で逃げた青年のことが書かれている。注解書では「それはマルコ自身ではないか」と言われている。そうでなければ、その記事を入れる理由が考えにくい。また、彼は伝道旅行も途中で脱落しているがその事実を隠すことなく、むしろしっかりと表している。彼は自らの弱さをさらしながらも、一方でそのような自分が福音書を書くまでになったというこの信仰による変革を表そうとしたのだ。
カッコばかりつけている自分ではいけない。愚かだった自分の姿を正直に現しながらも、そこから自分が変わった事実を証ししていく必要がある。それでこそ、子どもが親の弱さを見ながらも、その悔い改めや取り組みを感じることで、尊敬する対象として親を扱うようになるのである。そして老いた先で多くの不足が出てきたときに、子どもがその尊敬のゆえにその部分を覆っていく存在となってくれるのだ。 私たちを神が変えてくださったことを持ち続け、証しし続けることが私たちに与えられた使命である。あなたも転職で多くの場所を経験したからこそ、苦労はしたが今の仕事が守られているという部分もある。それを十分に語っていくことこそが証なのである。

なお、今日も豊かに学ぶ時が与えられたことを感謝し、またこの月も信仰をもって、日々取り組ませていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)