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質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-149 —
-- 2023年10月 開催 --
山本 咲
列王記Ⅰ 19章
カルメル山において壮絶な戦いを行ったのが先月の内容だった。バアルの預言者たちは一生懸命祈ったが何一つ変化はなかった。対するエリヤは瓶の水を3回もかけ、生贄や薪を水が滴るほどに濡らした。その所に天の火が下り真の神、主は祭壇の生贄を受け取られたのである。その光景を目にしたイスラエルの民は「エリヤの神は真の神である」とし、バアルの預言者を皆殺しにした。同時にそれだけではなく、3年の雨の降らなかった期間が終わり、雨が降るという出来事が起こった。このことを通し、イスラエル全体に真の神、主がおられることを知らしめたのである。そして今日取り上げるこの19章に続く。イズレエルに帰ったアハブは妻イゼベルに事の次第を伝えた。アハブという王はイスラエルの神を知らないわけではない。信じるという点でどこまで本気だったかということはわからない。人の心や思いは図りがたいものであり、時や状況によって大きく揺さぶられるものである。ただ彼にとってイスラエルの神も捨てられないものとしてあったことも事実である。しかし、真の神、主を唯一とし信仰者となって生きることを選ぶのではなく、彼はフェニキアからイゼベルという王女を迎えてバアル礼拝をも組み入れた。上手に様々なことを取り入れて自分に都合の良いものを作り上げようとしたのである。物事を合理的に柔軟に受け入れていくことは確かに必要なことであるが、こと信仰においては様々なものを混ぜてしまうと違ったものへと変わっていってしまう。信仰は人生の価値観を決める重大なものである。その根幹的なものが混ぜ物へと変わってしまっては意味をなさないということを彼は理解していなかったのだ。主が唯一としておられるということがイスラエルの長い歴史の中で示されている。にもかかわらず、人は都合で神を操ろうと不遜で愚かしい態度をとった。そのうえ「それは自分たちにとって正当な権利である」とし進めようとしたのだ。そのような状況の中で、アハブはあたかもイスラエルの神に駆け寄っているようにことを進めながらもイゼベルに起こった出来事を告げ口のように語り、どのようにすべきかと尋ねている。彼に主体性がなかったのかというとそうではない。彼はイスラエルの王として有能な人物であった。しかし、優秀なものはこのような場合に自分の責任や、人々の動きを上手に都合よく違った方向に進め保身に走ることが多い。彼もまた、優秀であったからこそ逆にこのような時にうまく責任から逃れようとしたのである。それこそが彼の悪賢さを象徴している。そのような中でエリヤは勝利をしたのである。しかし、次の瞬間イゼベルはエリヤの命を狙い、それを恐れたエリヤが逃げるという出来事が起こる。あれほどの勝利と力ある業がなされたのにもかかわらずエリヤは立ち向かうこともなく、無残にも逃げるという選択をすることになる。このことがまた、エリヤも人間であるということを示しているのである。聖書にこのことが記されているのはなぜかをよく考えてほしい。これは記者が勝手にエリヤの心の状態を察し書いたのだろうか。いやそうではない。エリヤ自身がこの出来事の詳細を語り、その心の動きを示したのである。それによって後の時代の者たちが、この戦いは神の戦いであり全ては主がなさったことで、エリヤ自身に力は一切ないことが示されたである。そして、人間だからこそ、疲れや現実世界における力不足を心に覚えたときに弱ってしまう。それによってこのような理解しがたい状況に陥ってしまったことを強く表している。私たちは人間が弱く、力のないものであることを理解しながら、信仰者としての人生を歩み続けていかなければならない。私たちは神が共にあって力を与えてくださるからこそ輝ける土の器である。神が私たちを用いて支えてくださらなければ何もできない存在なのだ。その自覚の上にこそ、私たちの信仰は成り立っているのである。またこのことがわかることによってそれぞれが「信仰者」といっても「人」として歩むときには弱さがあるのだということを理解していくことができるのだ。それによって互いを、信じ、愛し、忍耐し、助け合っていくのである。神は信仰者が支えあいながら歩む場として教会を与えてくださった。神とイエス・キリストの福音は大いなる形で伝えられていったと勘違いされやすいが実はそうではない。使徒の働きを読むと分かるように福音は人の弱さや足りなさの中でこそ伝えられていったのだ。私たちも互いに教会の中で歩ませていただくときに人の弱さや足らなさに出会う。その機会を見逃さずお互い支えあい必要があれば祈りあい、その所を乗り越えていくことが示されているのである。その中にこそ福音が豊かにあらわされる。
Q:異邦人であるアラムの王としてハザエルをたてるということを神がエリヤを通して行われましたが、このことを見たときに、改めて、この世界の全てを神が支配されていると感じました。そのようなとらえ方でよろしいでしょうか。
A:勿論その通りである。全てのことに神は関わっておられ、異邦人の間においても変わらず自らの姿を現してくださる。私たちはそこに境界線を作るものだと考えてしまうが、そうではない。神はこの世界の全てを統べ収めている。そこにこそ私たちの真理と生きるあり方を見出すのである。だからこそ私たちは異邦の支配や悪の挑戦に果敢に立ち向かっていく信仰を持つことができるのである。なんでもかんでも立ち向かえというのではないが、そのようなことを信じて歩むことこそ必要なのだ。神は必ずことを進めてくださる。そこに限界や神の入れない領域というものはない。その真実がここに示されているのである。バビロンの王ネブカデネザルによってユダの王国が陥落するのも神の許可が下りているからこそ起こった。それは大変厳しく悲しいことだが、私たちはそのようなことも承知していかなければならない。今の時代においてこのようなことを語るのは難しい。簡単に、これは神が許されたのだと起こってくる悲しい出来事全てに対し語っていれば、非難の声が上がってくるだろう。しかし確かに真理を語ろうとするならば、それは事実そうなのである。サタンと呼ばれるような神に敵対する側がこの世を支配しているからそのような悲しいことが起こると人は考えがちである。しかし、そうではない。神が全てをお許しになるからこそ、ことは起こってくるのだ。ということは、そこに神のお考え、御心がある。私たちはそれを探っていくこと、答えを見出そうとしていくことこそ本当に必要なことなのである。神のご支配のもとに意味なくなされることは一つもないのである。
Q:礼拝で語られている中で新しい義を示すというところから6つ取り上げられました。先日は積極的な愛についてレビ記から語られていましたが、イエス・キリストはその時代において新しいことを示されました。それはあくまで旧約聖書に語られていることを人々が誤ってとらえており、その勘違いを正すことで新しい考えを示されたというとらえ方でよろしいのでしょうか。それとも、本当に全く新しいことを示されたのでしょうか。
A:私は説教の中でイエス・キリストは律法を成就しようとしておられるということを語った。「成就するために来た」とは、本来なされるべきことが正しく行われていないからこそ起こってくるのだ。旧約の律法を破棄し、新しいものを与えようとしたわけではない。旧約の時代に語られたことは間違いのないことある。だからこそ、イエス・キリストはその約束を履行されようとしたのだ。この時代の人々も確かに教えを守ろうと生きていた。しかし、それでは神の与えようとした義は完成されていなかった。だからこそ神の考えを知り、本当の意味でその約束の本質を理解し、伝え、行わせるものが必要だったのである。「汝の隣人を愛せよ」という教えの中に、隣人以外は憎んでいいとは一言も語られていない。しかし、人間は語られていない部分を自分の都合の良いように書き換え、できないことに対する言い逃れを作ってしまったのだ。だからこそ、イエス・キリストはその余地を入れるような部分はなく、「隣人を愛する」とはこのようなことであると、よきサマリヤ人のたとえ話を持って語っているのである。それによって「誰が私の隣人ですか」ではなく、「私は誰の隣人になることができるだろうか」というとらえ方こそ、この律法の本質であると示されたのである。
先日の説教が強調し、私たちに迫っているのは、「自分に守れない、行えないことに対する余地をいつの間にか置いて、許して、克服せずに放置してしまう」のか。それとも、「イエス・キリストが語られたのだと自らの罪や弱さと向き合い、その余地を排除して神が示された律法を履行していく」のかである。私たちは信仰者として克服せずに放置してしまうというこのないように果敢に挑戦して変革を起こしていかなければならない。それでこそ、イエス・キリストの私たちに対する贖いの意義が強調され見えてくるのだ。イエス・キリストが救い主であり、私たちを神に結びつけていく唯一の方であるということを信じていくからこそ、見出していくことができるのである。そうではなく、致し方ないということだけで理由をつけて余地を残してしまうと、イエス・キリストを救い主として寄り頼むのではなく、余地を作り、言い訳をしてその所を乗り切ろうとしてしまうのである。それはこのように考えれば大丈夫なのだという偽装工作ばかりして結局、真の神に出会うことはできないのである。そこで出会えるのは神でも救い主でもない。取り繕った自分という現実だけなのだ。私たちはイエス・キリストを救い主として見出すために、主の示された、「汝のごとく私たちの隣人を愛しなさい」ということに真実に迫るべきである。
Q:神を畏れるという感覚が自分の中で薄いと思うことがあります。結婚するまでに通っていた教会では、畏れるということよりも、神は愛してくださるとか、共にいてくださるということを示されることが多かったと感じます。教会生活を結婚してから送る中で、表面的に「これが良い」、「これが悪い」と示されたことを守っていくことができても、自分の中にそのような感覚的なものが薄いと感じます。そのようなものは、やはり子どもの時からの積み重ねで培われていくと感じていますが、あとからでもそのような感覚を得ることはできると思われますか。
A:以前の教会の教え、方針は決して悪いものではない。ただ、その両方を持つ必要がある。なんでもかんでもバランスを取ればよいということではないが、営みの中で私たちは憐れみに心安らぐ部分と神の厳しさに畏れを抱く部分と両方を持っている必要がある。また、バランスといっても、両方が同じであることがいいわけでもない。それには、自分の気質も併せ持って考えていかなければならないのである。自分にとってはどちらを重要視すればよいかと考え、6:4とか、3:7とか必要に応じて比重を傾けて調節していけばよいのである。それを探っていくことも必要なのである。また、自分にそのような感覚が薄いということをおかしいと思う必要はないし、その感覚を無理に濃くしていく必要はないと私は考える。あなたの結婚した兄弟は畏れを強く持って生きている。それは反対に、彼が穏やかで神の憐れみの豊かさにどっぷりつかっているような感覚があるからである。幼きときに「神は何でも許してくれる」と行き過ぎたときに小突かれながら「神を畏れなさいよ」と教わってきたからである。あなたの息子にはそのような姿が見られる。彼は集会が終わると私のもとまで来てかまってほしいとアピールしている。「みんな僕のことを愛してくれている」という絶対的な安心感を持っているからこそ、笑顔で遠慮なくいろいろな人のもとに行きかっているのだ。それは彼の持っている賜物である。どうしても人と顔を合わせられない。目線をそらしてしまうというような子もいるが彼はそうではない。もちろんどっちが良い悪いというわけではない。神が個性というものを与えられているのだ。だからこそ、その子それぞれの個性、傾向や気質に合わせた対応が親には求められているのである。また、あなた自身の内面に関しては自身で傾向を探っていく必要がある。あなたの心はあなたにしかわからない。それに対し、神がどのようにご自身を表されたかをもう一度思いめぐらしながら考えていってほしい。先日ある兄弟が、老牧師よりきれいに魚を食べられるようにと指導されたからこそきれいにそれができていると語っていたが、私も同じように厳しく指導されたにもかかわらず身につかなかった。というのは、最終的なところ内面で自分の父親に甘えていたのだ。そして、適当にあしらっていたからこそ、魚をきれいに食べられないのである。私とその兄弟との違いは老牧師との関係が父親と息子かそれとも牧師と信者かということだけである。だからこそ、越えられなかったという部分もあるのだ。神との関係においても、神は変わらずにいてくださる方であるから、あなたからのかかわり方、心の持ち方によって神との関係や信仰が確立していくのである。神との関りを密にしようとあなたがすればそうなるし、逆に離れようとすればそのようになる。あなたの信仰も豊かに確立され導かれていくように願う。先日、野外礼拝で信徒メッセージがなされた。メッセージをした兄弟は5月に結婚して奥さんの在籍していたこの教会に来るようになった。約半年をこの教会で歩み、御用に携わった彼のメッセージにはただ聖書を読み解くだけでなく、そこに自らの証が込められたものになっていた。彼が前教会でどのように御用をしていたのかまでは知らない。ただ、証しを入れなくても聖書の内容を読み解くだけで十分にその働きを終えられる実力はあったと私は思う。しかし、彼はそこに彼自身の証を込めてきた。それは、この教会の中で彼自身感じるものがあったからであり、奥さんからの影響も大きかったと思う。そのうえで出来上がってきた彼のメッセージは神への真実な姿が現されていた。同時にこの教会で生きる方々一人一人に対する真実も込められていたのだと感じられ幸いなるメッセージで感謝をした。
話を戻すが、私たちの気質の中には自分でも納得のいかない部分もある。こうだったらよかったのに、なぜですか神様と誰しもが思う部分を持っていると感じる。それは一面、なぜそうだったのかを考えるきっかけになるのだ。「私はこれ嫌いなのよね」と自分を嫌悪したままにするのではなく、克服していくような営みを受入れていってもらいたい。
Q:子どもの答えづらい質問に対して、家族で話していて神様がお決めになったという答え方があったのですがどの程度使っていいものでしょうか。
A:それは最終的に答えなければならない真理である。安売りはしていけないが、最後にはそれが答えであるということを親が言い続けなければならない。それは親の方もそのことを真理のとして持ち続けていなければ、その様に言うことができないことである。神がお決めになったことだけど、私にはできないと曲げてしまったら最後、子どもに求めることもできなくなってしまう。だからこそ、私たちにとって一番大切な定着していくべき考え方なのである。安売りはしないが、言い続けていく必要があるのだ。「お母さんとお父さんの結婚は神様がお決めになったから、お母さんはお父さんと一緒にいるんだよ。」といっていながら、あるところに来ると「でもお父さんってこれがだめなのよね」と子どもの前で愚痴を言っているようではいけない。そうでないと律法学者パリサイ人たちが「これが神のおきてだ」と言い自分たちの正しさを証明しようとしながら、イエス・キリストから言えば、そのおきてが人間的なものから離隔していなくて、神の真理から外れてしまっているようでは意味がないのだ。
子どもの質問に対してということだったが、本人に知る必要のないことは別に答えなくてもよいと私は考える。「このことはあなたが知る必要ないです」ということを私は子どもたちに言うこともあった。逆に、「あなたは理由、理屈を知る必要はありません。まず黙っていうことを聞きなさい」と言ってきた。知る必要のないことは山ほどある。知れば子どもに悪影響を与えるだろうということも出てくる。それでも「子どもが知りたがっているのに隠すのは」とか「理由もわからないままでやれと言われるのは嫌だよな」と子どもの目線に立った気でいる親のエゴもあまりよくない。結局は親の自己満足で終わってしまうからである。だからこそ、本当に子どもにとって大切なこと、必要なことを良く見極めて、話をしていく必要があるのだ。
人間は自分の賞賛にとらわれやすい。子どもが自分をどう評しているかという見方から離れられず、それが取り分、評価、報酬であると思ってしまうのだ。働きに対し対価というものを人は求める。何においてもそうであるが、愛するということに生きると報酬はない。よきサマリヤ人は倒れている人をロバに載せて医者に見せ、宿代まで払った。しかし、彼にその報酬がなされたわけではない。その隣人を愛するという事実だけである。気を付けていかないと私たち人間はどうしてもこの報酬に対する執着が大きくなる。その果てには、報酬がなければ働かないということまで起こってくる。教会で奉仕をする機会はあるが「それって何になるの?」「その功績は公けになるの?」「評価されるの?」そうではないならしない。ということが起こってくる。「神の憐れみに対して私自身をささげていくんです」というような思いがないとできない。報酬がなければ動かないということを越えていくためにはそれしかないのだ。それを越えさせて下さるのが信仰なのである。社会においてもこの力が発揮される瞬間がある。目先に報酬がなくても相手を思って働く時に、巡り巡って何らかの形でそれらが返ってくるのだ。それは私たちにとっての神からの祝福である。この神からの祝福が与えられるという価値観が備わっているかどうかで私たちの動きは大きく変わるのである。特にクリスチャンホームにおいてはそのような感覚を幼い時から養っておくとよい。若ければ若いほどこのような感覚は養うことができる。だから私たちはいいから言うことをきいてやりなさいという部分と、それに対しどこかで報酬ではないが、チョコレートケーキがドン!とプレゼントされるという経験をさせてあげる。それによって子どもは直接的にそれが自分の欲しいものにつながらなくても、何らかの形で神からの祝福が与えられるという感覚を養い経験することができる。この積み重ねによって子どもたちの中にその感覚、価値観が導かれるのである。なお引き続き、あなたの子どもたちとのかかわりの中にあって、豊かに神の御手の中で育まれる経験を積み重ねていっていただきたい。
Q:先日同年代の兄弟たちと関わる交わりの機会を持つことができました。その中で家庭の話や、子どもたちの話をすることができ、同じような年代の信仰者の友がいることに感謝をいたしました。
A:今の関りはこれからもっと信仰の交わりが多様化してくる。親のつながりから、その先に子ども同士のつながりが始まってきたり、子ども同士の様子を見てみたり、お互いが豊かに信仰者として分かち合い、助け合う関係として4つの家庭がつながるようになるのだ。祝福をお互いのうちに受けあい、分かち合うものへとなってくるのだ。その中でお互いが、信じあい、助け合い、つながりあって成長が与えられるのである。この関係は長く続き、ずっとついてまわる。その先は子どもたちが成長して、巣立ち、夫婦の時間が訪れ、その世代としてまた関り、その先で天国を共に信じ、歩むものとなるのだ。お互いが信仰者として、導かれていくのである。このつながりは本当に不思議なものである。社会にあるつながりとはまた異なるものなのだ。この横のつながりが、次の横のつながりを生み、世代を形成する。同じ悩みを持ち、相談しあい、祈りあい、証ししあい、成長しあう。なおその関係を大切に家庭においてそれぞれが柱であるように、教会においても柱として立ち続けていただきたく願う。