同労者

キリスト教—信徒の志す—

説教

—  永遠のいのち—

山本 咲


「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6: 20-21)

 8月11、12日仙台聖泉キリスト教会でSunday Kid‘s Summer Festival(以降SF)&教会お泊り会が行われました。2回目の開催となったこの集会を今年も変わらずに行うことができましたことをまず感謝いたします。教会の子どもたちが4人、誘われてきたお友達が1人参加し、行わせていただきました。初めに取り上げさせていただいた聖言は今年のSFの礼拝で開いたものです。SK(Sunday Kid‘s)で御用をさせていただいたその初めから、私は少しでも子どもたちの心に残るようにと視覚教材と結びつけながらお話をさせていただきました。等身大ゴリアテが天井にぶつかって子どもたちと笑ったのは、私にとっても子どもたちにとっても印象深い出来事でした。今回は代表の子に10円か100円か選んで握ってもらったお金(100円でした)が、いつの間にか10円に代わっているというものを行いました。

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「大事に握っててね、先生に取られないようにだよ」というと「うん!」と力いっぱい握りしめていました。このことから、私たちの握りしめているものの話をさせていただいたのです。そこで聖書からもう一か所取り上げたのはマタイ19章16-26節です。一人の青年がイエス・キリストのもとにきて「永遠のいのちを得る」つまりは「神の国に入る」にはどのようにすればよいかと尋ねます。それに対しイエス・キリストは「おきて」を守ることだと示すと青年は幼い時からそうしていると語るのです。

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そこでイエス・キリストは持ち物を売り払い貧しい人たちに施し、その後、わたしに従うようにと勧めます。しかし、彼はその言葉を聞くと悲しみながら立ち去ってしまったのです。私たちはそれぞれ大切なもの、大事にしているもの、つまりは宝物があります。
 宝物はどうしても握りしめておきたい。手元に置いておきたい、そう思ってしまいますが、実際そうやって守っているものほどあっという間に私たちの手の中からこぼれ落ちてしまいます。しかし、それを自分のところから手放して、天につむことほど、大切なことはありません。それはただ誰かに施しをしなさいということではなく、語られているように宝のあるところに私たちの心もあるということが重要なのです。マタイの福音書で語られた青年の心は最終的に天に向けられることはなく、手元のお金にあったのです。だからこそ彼は去って行ってしまいました。このお話は決して私たちが財産を持つことを禁止しているのではありません。お金は生活に必要で、子どもたちですら、10円か100円かと聞かれると高いから100円と選ぶほどその価値が染みついているものです。生活にはどうしても欠かせないものです。ではなぜこのように語られているのでしょうか。それは生活に必要なものであっても、それに心がとらわれているようではいけないということなのです。私たちの心が手元で握りしめているお金や、友人との関係、社会生活、学校や成績、娯楽に奪われているということが問題なのだと語られているのです。本来私たちの心は天におられる神とイエス・キリストとともにあることが求められています。だからこそ、私たちは手に握りしめたものを離し、天にこそ目を向けて、世に在る宝を運用し、天の宝を得る必要があるのです。
 子どもたちにはもう少しわかりやすい言葉を使いましたが、内容は変わりません。彼らにできる範囲の中で導かれていることは何か、召されている働きとはなにかを考えていく必要があることを語りました。「一人ぼっちの誰かに声をかけること、お友達になることは難しいよね。声を掛けたらほかのお友達に避けられるかもしれない。自分が今度は一人になるかもしれないって考えちゃう。でもそれって自分を宝物にして守ってない?それは心が神様の言葉よりも自分を大切にしたい、傷つきたくないって思いに向いているからじゃないかな?」と身近なことで子どもたちに語ると、真剣な表情やうなづく様子が見られていました。  仙台聖泉一本杉教会でSKがもたれるようになり、教会の子どもたちは毎回お友達を誘ってきました。

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それは私たちが子どもの時にはあまり考えられないことでした。誘ったとしても子ども向けの集会はあまりなく、年に1,2回程度でした。だからこそ月1回で行われるような集会も、そのように教会に友達を誘うということも考えられませんでした。この教会に友達を誘うということもそう簡単なことではありません。 教会に行っていると学校で明かせば、それを理由にからかわれたり、否定されたりするということも起こってきます。しかし、
彼らは自分たちが教会に行っていることを明かし、恐れずにお友達を誘っています。私はそんな彼らの働きに喜びを覚えます。彼らが、今後も恐れずに自らの握りしめたものに心をおくのではなく、天に心を向けていくことができるようにと祈ります。また、彼らの働きに神が豊かに報いてくださることを信じます。

 
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SFは礼拝を終えた後はお楽しみの時間。ゲーム大会や、水遊び、バーベキューに花火と盛りだくさんの一日となりました。
水遊びからは教会学校の幼稚科、乳児科の子どもたちも加えられ、さらに盛り上がりを見せました。来てくれた子どもたちみんなが楽しんでくれたこと、神が最初から最後まで守り導いてくださったことを感謝いたします。
 誘ったお友達や小さな子どもたちが帰った後は、引き続きお泊り会が行われました。このお泊り会も教会に子どもたちが多かった時には毎年行われていましたが、子どもたちが少なかった期間は行われず、昨年SFとともに久しぶりに開催され、引き続き、今年も行うことができました。私自身も子どものころ、このお泊り会を楽しんだ思い出があります。教会のお兄さんお姉さんたちや同年代のお友達と一緒にゲームを遅くまで楽しみ、プールやかき氷と夏の遊びを満喫し、毎年この時期を過ごしました。そして今は私たちが今度は子どもたちのために企画し、一緒に楽しい時間を過ごすようになりました。今年はあいにくの雨でプールには行けませんでしたが、みんなでボウリングをして盛り上がりました。

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 時代とともに、変わるものは多くあります。第二教会ができて、集会の幅が広がったこと。そこで友だちを誘えるようになったこと。誘うために召された者たちがいて、そこに自分自身をささげて仕えていこうとすること。自分たちで考え、誰かのために仕えること。しかし同時に変わらないこともあります。自分たちが子どものころしてもらったように、次の世代の子どもたちを愛し、共に過ごすことです。それはもちろん世代が変わっても同じです。教会には幼子からお年を召した方まで多くが集います。そしてそれぞれが賜物を持ち寄って互いに仕えあうのです。そこには大きな愛があります。これこそ、神の国がこの世にあって成就する形なのだと私は思うのです。小中学生の子どもたちもさらに年下の子どもたちを愛し、かわいがっています。いえ、それよりさらに小さな子どもたちだって、赤ちゃんのお世話をしようとします。「私には祈ることしかできないけれど」と語りながら、いつもみんなのために祈る方がいて、「シジミをとってきたから皆さんどうぞおもちかえりください」という方もいます。聖書の知識に優れ、教えてくれる方やパソコンが得意でディスプレイやチラシ、ホームページに携わる方がいます。いつも丁寧に教会をきれいに掃除してくださる方がいます。多すぎて書ききれないことが残念です。数えきれない賜物が集い、愛にあふれるところ、それが教会です。私はこの教会の愛の中で育ちました。数えきれない愛を受けてきました。だからこそ、それをなお私自身も繋ぎ、次の世代を愛していくことによってその愛を継承していきたいのです。この教会に集うまだまだ小さな子どもたちが、その愛の中で喜びとともに育まれ、その愛を受け継ぐものとなっていってほしいと願います。そして、彼らが次の世代を愛するときにはそれを後ろから支えるものとなっていきたいのです。なお主が私たちの教会とともにあってくださると信じます。
私たちの教会で語り続けられてきた「信仰の継承」それは、主から与えられた愛によって思いや願いがつながれ、永遠に続くいのちを生みだすものであることを覚え心から感謝いたします。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)