同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖霊への渇き  —

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」(詩篇 42:1-2)
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)

 5月19日は今年のペンテコステです。例年のように、私たちに注がれる聖霊について考察したいと思います。
 私たちは救われて「罪の赦し」と「新生」の恵みに与った後に受ける「聖潔」(きよめ、聖化)の恵みがあることを知っています。知ってはいるけれどもまだそれを受けていないことを前提として説明しましょう。既にこの恵みを受けている方はその理解の助けとしてください。
 この恵みは「救われた」ときと似ています。

1. 必要の自覚
 パジェット・ウィルクスは著書「救霊の動力」に、救いに至る最初の道は、「必要を自覚する」ことであると強調します。日本の様な信仰の土壌に育った人が、天路歴程の旅人のように「罪の重荷に悩む」ようなことはまずない、ほんのかすかな光である「必要」に気づくのであり、「罪」といっても「神に対する罪」は彼には理解しがたいことであると。それはイエスが教えられた、
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ 5:3)
に通じます。貧しい人には「必要なもの」があります。同様に聖潔(こころの潔さ)に不足を自覚し、自分にはそれが必要であると理解することです。救われて「新生」のいのちに生きていながら「汚れたこころ」と共存している自分に気づいていなかったことを意味します。
 こころの汚れを除いていただきたい、聖霊を受け、聖霊によって歩む人生に生きたいと、飢え乾く思いをもつことです。

2. その恵みがあることを信じること、そしてそれは「聖霊を受ける」ことである信じること
 「聖潔」というと信じることができないひとびともたくさんいます。そういう人は「聖霊を受ける」ということばに置き換えて信じるとよいのです。イエスご自身が、
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。」 (ヨハネ 14:16-17)
「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ 14:26)
「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ 20:22) と言われました。
 弟子たちはそのとおり、「聖霊に満たされ」(使徒 2:4)ました。使徒の働きに弟子たちが「聖霊に満たされる」ことがくり返し記されています。  それは、既に救われている信者におきたことで、新生の恵みとは別なことであることは明らかです。

3. 神がそれを与えたいと願っておられること
 イエスが最後の晩餐で弟子たちに語られた説教と祈りの中心テーマは「聖霊」です。イエスが天に帰られたあと、残された弟子たちと聖霊がイエスの事業を引き継いだのです。
「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。」(ペテロⅠ 1:15-16)
神は御自身が「聖」であるから、神を信じる人々も「聖」であることを望んでおられる、もっと強く「命令して」おられます。
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」 (テサロニケⅡ 5:23-24)

  4. 神に求めること
 「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ 7:7)
 聖霊を受けたいなら神に「求める」ことです。それは「真摯な信仰生活をする」ことであって、いい加減な信仰生活をしながら言葉だけで願っても期待できないでしょう。同時に、真摯な信仰生活をしながらも、聖霊の満たしがあることを期待しない、信じない、ならその場合も聖霊に満たされることは期待できないでしょう。