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キリスト教—信徒の志す—

― Q&Aルーム ―

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-155 —
   -- 2024年4月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 3章

 アハブの王が死んだ後、その息子であるアハズヤが後を継いだ。しかし彼は足掛け二年ほどの期間で病から死んでしまう。そして、同じくアハブの息子であったヨラムが王となった。彼についての紹介は「父母よりは悪くなかった」また「バアルの石の柱を取り除いた」ということが語られている。ここで筆者は自分の主観をもって彼のことを書き記すのではなく、彼の行ったことを記すことで読む者たちに次代のイスラエルの王がどのような人物であったのかという判断をゆだねているのだ。ヨラムは石の柱を取り除いたが、彼がイスラエルの真の神を信じていたわけではない。それは、ダンとベテルにネバテの子ヤロブアムが建てた偶像がそのまま残してあったことからわかる。また、3章に描かれている、モアブが反逆したことに対し、討伐に出ていく姿勢や扱い、扱われ方、彼の発言、王としての責任の果たし方、それがどのような経過をたどり結果として表れているのかということを一つ一つ統合することによって筆者は私たちに読み取らせようとしているのだ。確かに、ヨラムは国を改革しようとして様々なことを行っている姿が描かれているが、そこには大切なことがかけている。彼の中には宗教性が養われておらず、罪を悔い改めて、イスラエルの神、主に従っていくことができなかったのである。私たちは人の信仰を図ることはできない。あの人はこういう人だから信仰を持っているとか、あの人はこんな人だから信仰者ではないとは言えない。私たちの主観で断罪するようなことはできないのだ。だからこそ、筆者もその部分を主観的には描き出していない。しかし、起こってきた事実そのものを通して、彼とその信仰を見るように促しているのである。彼は信仰によってことを行ったのではない。結局、前に歩んだ者たちの失敗を反面教師のようにとらえ、バアルは期限切れだと偶像を取り除いたに過ぎないのである。本当の意味で彼は信仰をもって、イスラエルの神、主を信じ、求めるということができず、自らを神の前にへりくだらせることも、従っていくということもせずにいることがここから読み取れる。彼には知識、また周りに進言するものがいた。それゆえ一見すると信仰者の行いのように見えるが、実際はあくまで中身のないものになってしまっているのである。それをわたしたち信仰者は読み解くことができる。それこそ、筆者が伝えたかったことである。ただ、それは私たちの信仰もそうであることをあらわしている。私たちも読むことができるだけで、それを自らの生き方に反映できなければ、ヨラムと同じであると厳しい形で私たちにその信仰生活の在り方を迫っているのである。旧約聖書は特に歴史の事実をもってして私たちの信仰生活や神との歩みがどのようなものであるのかということを問うてくる。私たちはこれらを読むときに、自らの信仰生活をもう一度見つめなおす必要があるのだ。
ここで、このところに書かれているもう一人の人物ヨシャパテに目を留めたい。ヨラムの父であるアハブに要請され、アラムと戦った際、彼は命からがら抜け出して。それにもかかわらず再び、このところでヨラムに要請をされ、戦いに出ている。一見すると彼の姿はまるで愚かなように思える。しかし、ここからわかるのは、彼の真実な姿である。このところで戦いに出ていく彼はイスラエルのために命をかけようという信仰的覚悟がある。
都合が悪くなれば変えて、悟ったかのように判断をころころ動かしてしまうのはよくない。実際は、ヨシャパテのようにイスラエルのために戦おうとする姿勢が大切なのである。その先に神が報いを用意しておられる。エリシャはヨシャパテの信仰的姿勢をもって働きをなした。そのことを見るならば、ヨシャパテが神を第一として、信仰的に物事を進めようとしていることがわかるのである。
このようなヨシャパテの姿に対比するように描かれているのが、ヨラムという人物である。彼は良いことを思いついたかのようにエドムの荒野の道を選んだのにもかかわらず、それで失敗が起これば、それはまるで神から起こってきた出来事であるかのように語っている。彼は主の名を取り上げ、物事を語るが、信仰者でも何でもないのだ。それにもかかわらず、神はこの有事の際に助けの手としてエリシャを近くに備えておいてくださった。ただ、この戦いは勝利とはならなかった。なぜなら、この戦いを仕切っておられるのは神であり、その結末は神が導かれるものである。そこから見るならば、ヨラムは結局信仰によって物事を行っていないゆえに、神は応答として勝利という報酬を与えるわけにはいかなかった。だからこそ、これほどまでに助けがあったにもかかわらず、この戦いは勝利へとならなかったのである。
私たちも信仰が形だけのものや知恵だけのものになってはならないことを注意していかなければならない。ヨラムにはイスラエルの王という肩書のもと、自らの責任を果たす必要があった。神がそこに召してくださるからこそ、そこに自らの力を果たす必要があったのだ。私たちも、王ではないがそれぞれに肩書を持っている。家族役割、教会の役割、社会の役割。それぞれのところにあって与えられた役割を信仰によって果たす必要がある。なぜならそこにこそ、神が望んでおられる道があるのだ。そしてそれによって神は私たちに報酬という勝利を与えようとしておられるのである。すでに救いという恵みを受けてなお与えられる神の祝福に感謝を覚えつつ、与えられた役割を果たしていきたく願う。

Q:27節のところでモアブの王が城壁の上で行った行為について述べられ「イスラエル人への怒りが起こり・・」ということが書かれていますが、これは神がヨラムに対する姿勢をあらわしているということでよろしいのでしょうか。

A:勝利という形でこの戦いは終わっていない。また、この出来事は敵側のモアブも石碑に書いて記録を残しており「イスラエルを追い返し、勝利した」と述べている。これは考古学の話だが、そのような形で残っている。アハブの時代イスラエルはフェニキアと組んで、大きな力を持っていた。だからこそ、モアブも羊毛を貢物としてささげ、自らの国を守る必要があったのだ。しかし、時代が変わり、イスラエルの力が衰退する中で彼らには貢物をするだけの価値が無くなった。だからこそ、彼らは抵抗し、この戦いが起こったのである。その後、貢物がどのようになっていったのかはそういう意味で聖書がその先を記述することに価値を置いていないためにわからない。とはいえ、この戦いは貢物を納めなかったモアブに対しイスラエルが起こしたものであるからこそ、それが勝利することなく終わってしまった事実は大きな意味が込められている結果となったのである。 彼はアハブの子として産まれたが、王にはならないはずだった。しかし、彼は召しによって王になることとなる。だからこそ、彼はその召しに従い、役目、自らの責任を神への信仰をもってことをなす必要があった。しかし、彼は、その役目を果たせず、うわべだけのものでしかなかった。それゆえに滅びへとつながるのである。私たちも信仰者生活の中にそのような意味合いを持たなければならない。救いを知っていても、実践していなかければそれは意味をなさないものとなるのである。私たちの信仰には行いというものも伴っていく必要があるのだ。

Q:安息日について教えてください。

A:神はこの世界を創造されたときに6日間をかけて働きを行われ、7日目は休まれた。だから同じように私たちも6日間はそれぞれの働きを行い、7日目は神のこと信じ、覚える日としたのである。この日は本来神にささげる日なのである。キリスト教は、週の最初の日を神にささげる日として、日曜日に礼拝をおこなうようになった。キリスト教は安息日とは言わない。安息日というのはユダヤ教の言い方である。そこにはいろいろな約束があり、何をしてはいけないというものが出てきた。例えば煮炊きをしてはいけないとかである。ただ本来は神を信じて、その日を生き、ささげることが目的だったのである。

Q:聖書日課でヨブ記を読んでいますが、ヨブが友人から攻められている姿にそれでも揺らがないものが彼の中にはあり、それが信仰の強さでもあると感じるのですが、どうなのでしょうか。

A:読み方はご本人の思いを反映する。そのあなたの質問を聞いていると、あなた自身のつらい思いを感じられる。ヨブ記は結果として「ヨブは正しい」ということを伝えようとしているのである。そして同時に彼を攻めているヨブの友人3人も決して間違ったことは言っていない。ただヨブ記は私たち信仰者が陥りやすい「正しさを優先するあまり相手の心をないがしろにする」という行為に注意すべきだと述べているのである。聖書全体がイエス・キリストをあらわしていることからヨブ記もそこにある意味を込めている。それはイエス・キリストが来られたことによって神との良好な関係が回復されたと同時に私たちは隣人との関係もより豊かで尊いものへと変えられたということである。イエス・キリストは神を愛し、その隣人を愛しなさいということを伝え続けている。そしてそのためには誰かを否定したり、攻めたりするのではなく、なにかを変えるためにはまず私たちが変わる必要があるのだ。それは確かに難しく思える。しかし、どうにもならないのではない。私たちが神を信じるという信仰によって行っていくときに、神によって変えられていくのである。だからこそ、私たちはイエス・キリストの贖いを信じ、一つ一つのことを行っていく必要があるのだ。それによって自分自身を正し、遜らせていくのである。
ヨラムのように反面教師的に変えながらも、結局彼の行いは信仰ではない。彼は神や、愛する隣人のためにことを行っているわけではない。結局好きなことをして、自分の思いを果たしているだけなのだ。それゆえに、何も変わっていかない。序列をつける際には誰を一番にしていくかを考えていく必要がある。神を一番にしていくということは、自分を次にしていくということなのだ。神を畏れていますと言いながら、結局自分が一番になっていては何も変わらないのである。
私はクリスチャンですという旗を振っているから、信仰者なのではなく、人から言われてこそ、本来のクリスチャンなのだ。私たちがどのような状況にあっても、相手の行為に対しかたきを取るのではなく、愛をもって接していくことをイエス・キリストは求めておられるのである。それをできるかどうかということが重要なのだ。ヨブ記は最後に神の裁きとして、ヨブの傲慢さを取り上げたがそれだけで終わるのではない。苦しみの中にあるヨブを慰め、いたわるのではなく、攻めたヨブの友人たちへ神の怒りが下るのだ。そしてそのとりなしはヨブの祈りによってのみなされることが示された。そしてヨブが祈った時、神はそれを通し、友人たちへの怒りを納められたのだ。旧約聖書はこの記事を通し、私たちの本来の救いはイエス・キリストを通してのみ与えられるということを予表しているのである。神の憐れみがヨブを通してその友人たちに与えられたように、イエス・キリストを通してのみ私たちにその憐れみである救いが与えられるのだ。

Q:ヨブ記23章10節「私は金のように出てくる」と書かれていて、注解書には「金を精錬される過程から表される比喩」と書かれていたのですが、いまいちしっくりきませんでした。どういうことでしょうか。

A:精錬されるとは混ざり物が取り除かれて、純粋なものになっていくことである。ヨブはこの比喩を通して純粋な信仰を持った自らをあらわしているのだ。信仰はやはり、精錬される必要がある。神に練られ続け、混ざりものをだんだんと取り除かれることを求めていくべきなのだ。ヨラムが道を迷い、死にそうになった際、「神がほろぼそうとされている」と自らの悪しきと罪に対する裁きの手を結び続けてしまった。何とも安っぽく、すぐにいじけるような信仰である。ただ、事実信仰の初期には起こりやすいことだ。あたかも自らの罪の問題や、悪しきに対する神の姿勢を分かったように思って「これは裁きだ」と結びつけてしまうのである。神が私たちを愛してくださっているという事実は信仰生活が豊かに行われて初めて本当にわかるようになる。神は私たちを愛してくださっているという理屈はわかるが、それが本当に納得のいくものとなっているかが重要なのである。形だけで神の愛を理解していてもそれはすぐに揺らいでしまう。また、神に対する献身の姿勢を取り続けていくことができなくなる。もちろん私たちは信仰を持っているからと言って動揺しないわけでも、「神よいつですか」と叫ばないわけではない。ただ、ほかに安らぎを求めるのではなく、最後まで私たちは「神よ私たちを贖ってください」「私の角を上げてください」と叫び続けるのだ。それは神に信頼しているからである。それを越えて、神の愛とそのお扱いの中に置かれることを経験する中でこそ、信仰がなされていくのである。経験値のない人は逃げ回るしかない。そして逃げ口上が上手で結果的には何も負わない。それではことは起こらないのである。
私は先日ある兄弟が孫息子を背負っていたのをみた際に涙が出た。それは、私が信じてことを行ったゆえに神が与えられた祝福の光景であると感じたからである。その出来事の始まりはその兄弟の息子の婚約という出来事である。男性はクリスチャンであったが、女性の方は当時未信者で私たちの教会でこれまで行われてきた婚約はクリスチャン同士のものだけであったからこそ、大きな出来事であった。当時教会に対する大きなリスクであると老牧師とは意見の対立も出てきたほどであった。しかし、教会の躓きになるようなことをしてはいけないというが、福音を前にしたときに私たちは躓きを恐れてすべてをやめてしまうようなことがあっていいのかと思ったのである。だからこそ、この問題に対して私は信仰をもって一歩踏み出させていただいた。奥さんの方は現在救われて、来会者の方に手紙を送ったり、一本杉教会のHPを更新したり、大いにこの教会で福音の働きをしている。彼女は自分が外から来た人間だからこそ、このようにした方がいいという提案もしている。さらにはその信仰生活を真剣に生きる彼女の姿は結婚した男性の方の信仰にも影響を及ぼした。彼は奥さんのそのような姿を見て、神に対して自らがいかに不遜なものだったかと証したのである。そしてその積み重ねた先に、子どもが与えられた。その子をお祖父さんがおんぶしているのだ。それはそもそも婚約が行われなければ与えられなかった光景である。だからこそ「神が私の働き、信仰に報いてくださった」と心から喜び、涙したのだ。それは私たちが経験しなければならないことである。ことをなしてみて初めて私たちの信仰は実るのだ。ことを起こさずにいたり、後付けのようにことをなしたりすると結局はどうにもならないのである。
精錬の歩みは「結局終わりはあるのか、完成形はあるのか」と思ってしまうことがある。困難も伴うものだ。しかし、それは信仰の経験の中で、確かに形作られていく。労苦が積み重ねられ精錬された金はだからこそ、高価なのだ。私たちもまた、神によってそのような価値を受けるものとなっていきたく願う。

Q:先日の礼拝で「目」について語られていました。目自体の良さではなく、何を見るべきかというところが重要であると言われていましたが、日常の中で見るべきところをどのように見出していけばよいのでしょうか。

A:正解はイエス・キリストを見なさいということであり、イエス・キリストを人格として迎え、交わりを持つということが礼拝で語ったことの結論である。では具体的にイエス・キリストと人格的にどのようにして交わりを持ったらよいのか。それは「イエス・キリストが送ってくださった方」と思えるような存在が現れた際にイエス・キリストとコミュニケーションをとるように相手を扱っていくということなのだ。人格と豊かな交わりをしていくと、知らないうちに同じところを見ていたり、同じことを感じていたりする。それはイエス・キリストも同じであると実感できる。だからこそ、わたしにはイエス・キリストが「いつまで求道者に対して心を寄せないのか」と語りかけているように感じられた。そして「信じてリスクを負ってみなよ!」と示されたのだ。私はその言葉を信じてことをなした。その先に私は神の見せてくださった祝福の光景を見たのだ。だからこそ、涙が出る。あなたはよく賛美や聖言を通して涙を流している。それはイエス・キリストの息吹を感じているからこそである。あるところでぐっと涙が出てくるのは主の愛を豊かに感じられるからなのだ。引き続き怠りなく、取り組んでいってほしい。

Q:キャパオーバーについて聞きたいのですが、どのようにして判断していく必要がありますか。

A:家族への扱いが雑になったり、受け止められずにいたりする時はキャパオーバーになっている証拠である。子どもがいる家庭は特に親の様子を見て子どもが素直にあらわすからわかりやすい。あなたも家族の言葉をうけとめられなかったり、イライラしたりするときは、自分がキャパオーバーしているということがわかるのだ。キャパオーバーという面で言えば、自らがそうだと感じたなら、可能な範囲で重荷を減らして対応していけばよい。とはいえ、合理性を優勢して、すべてのことを判断する必要はない。若いうちは無駄も多いし、目を留めなくてもよいことに目が留まってしまうこともある。しかし、年をとってからは、無駄と思えるようなことを排除しすぎて避けてしまい、逆に何も当たらなくなってしまうのだ。それは実際、無駄ではないことも無駄という扱いに貶めてしまうこともある。あなたはまだ若い。だからこそ、いろいろなものに目を留め、経験していくとよい。

Q:「福音的」という言葉に心が動かされ、今自分の生活の中で実践していくようにしています。仕事で私の班に32歳の新人の方が入り、会話を進めていく中で、相手と共感できるものを探していこうとする自分がいます。相手はパチンコが趣味だと言っていて、なかなか合う話題がなく、苦戦しているところですが、そうやって相手のことを思い、関係を築き上げていこうとするということも福音的な働きであると考えてもよろしいのでしょうか。

A:それで良いと思う。あなたは相手の趣味がパチンコであると聞いて、自らがやらないからと話題を避けたかもしれないが、逆にパチンコはやらなくても、話を聞いてみて、どういう喜びがそこにあるのか、なぜそのような娯楽に行きついたのかとか、魅力を語らせるのもよいと思う。その中で何かがつながるかもしれない。また私たちの中にどんな感覚があるかを探ることができるのである。自分の価値観や、判断力を客観的に見ていくうえでも自分が相手の話にどのような感覚を抱くかは重要な要素となるのだ。もちろん精査は必要だが、注意したうえで、そのような人に近づいていく必要は福音を語るうえでは重要だ。イエス・キリストは取税人にも、娼婦と呼ばれるような人のそばにも足を運ばれた。イエス・キリストご自身は直接的にその魅力にひかれたわけではもちろんない。それでも、そのようなものを忌み嫌い遠ざけるのではなく、あえて、相手に近づいてその人自身を知ろうとした方なのだ。それは相手を思うゆえであり、そこから福音が語られるためであった。同じように私たちも遠ざけるべきと思われるような人のそばに行き、関わる必要があるのだ。あなたが仕事で問題を抱えた際に「同僚たちを遠ざけているゆえに、働きにくさが出てきている」「むしろ相手とよく関わり、相手を知り、仕事の同僚を大切にすることで効率的に事を進められる」と語ったことがあった。あなたはそれを実践し、自らを遣わされている人間として、愛をもって同僚にかかわるようになった。それによって仕事の効率ももちろんだが、あなた自身の考え方、価値観も変えられ、今では率先して福音に生きようとしている。それはとても幸いなことである。私たちはそのようにして自らを聖言にあるように地の塩、世の光としていくことができるのである。なお取り組んでいっていただきたい。

日々の中で福音へと遣わされている私たちはその働きに困難を覚える時もあるが、なおこれからも自らのその使命を果たさせていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)