同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(41) —

野澤 睦雄


「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。」(ヨハネ 16:23-26)

3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎

 <祈り>
 聖書のなかにどういう祈りが聞かれるか、たくさん書かれています。冒頭に掲げたみことばはもっともよく知られているもので、すべての祈りが「イエス・キリストの名によって」祈られています。

「主はご自分のすべての道において正しく、  またすべてのみわざにおいて恵み深い。主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。」(詩篇 145:17-19)
 ここに「主を恐れ、真実に主を呼び求める人の祈りを聞かれる」ことがここに書かれています。

「彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。」(ヨハネ 9:30-32)
シロアムの池で目を洗い、イエスに盲目を癒やされた人のことばです。「神を敬い、そのみこころを行う人の祈りを神は聞いてくださいます。

「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。」(ヤコブ 5:15)
神とのすべての関係は「信仰」が鍵であって、祈りもその一つです。「信仰」が聞いていただける祈りの決定的要素です。

「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」 (ヤコブ 5:16)
力ある祈りは、義しいひとのものです。

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ 18:13-14)
 これはイエスが話された例話です。神は罪人にも祈りを聞いていただける道を残されました。
しかし、罪人のままいきなり力ある祈りはなされないのであって、この人はその人生を改め、義しい生活をするようになって後、力ある働きの祈りをしたかもしれません。

「主はご自分のすべての道において正しく、  またすべてのみわざにおいて恵み深い。主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。」(詩篇 145:17-19)
 神を畏れる人すなわち敬虔な人の真実な祈りを神は聞かれるというお約束です。

「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」(ヨハネⅠ 3:21-23)

 兄弟を愛するという神の戒めを守っている人は、心に責められるところがなく、大胆に神の前に出て祈り求めることができます。その祈りは「なんでも」聞かれると約束されています

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(ヨハネⅠ 5:14-15)
神のみこころにかなう願いは聞かれます。私たちの願いが神の願われることと一致することです。自分の欲が願いの中心にあるひとは、まずそれから潔められなければなりません。

(仙台聖泉キリスト教会員)