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― Q&Aルーム ―

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-153 —
   -- 2024年2月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 1章

 列王記Ⅰはアハブの死をもって書が区切られている。なぜそのようなことを区切りとしているのだろうか。聖書を研究している人たちによると、もともと1つの巻物のようだったものをある程度の長さでまとめてⅠ、Ⅱと分けたのだろうと考えられている。研究を続ける中で証拠のようなものが出てくれば、それによって結果も変わってくる。一面の不思議さを持ちながら、神の変わらない恵み、憐れみということがこの聖言にも現されているのである。同時に慈悲の無さというものも描き出されている。ただ、一連の王たちの歴史を見ていく中で私たちは、神が最悪と呼ばれるような王アハブにさえ憐れみと導きの御手を伸べ続けていた事実を知るのである。そのようなことを正しく見ていかなければ、真理が私たちの信仰生活に反映されていくということも起こらず、むしろズレが産まれてしまう。それは聖言を読んだときに神に近づき、神の御心を知らなければならないのにもかかわらず、それを邪魔し、むしろ、神から私たちを離させるものになってしまうのである。
 今日のところもそのようなことを注意して読んでいく必要がある。取り上げられているのはアハブの死後、その王位を継承した息子アハズヤのことである。彼は、最悪の王アハブと、その最悪の王を作り上げた異邦の女イゼベルから生まれた。そのことから考えるならば、彼もまた、最悪をさらにひどくしたものだろうと思われる。ただ、神はこのアハズヤが悔い改めることを願っておられ、それゆえに一つ一つのことが行われていると私たちは心に留めて読んでいかなければならない。逆に言うならば「こんなひどい王なのだから、ひどい終わり方をするだろう」「あぁやはりそうなった。こんな王に比べれば、私はクリスチャンとして神を信じて生きているからよい」と思っているようではいけない。それでは本来の読み方から外れている。結果としてそれは、私たち自身の信仰を正しく吟味しないまま終わっていってしまうことにつながる。これを恐れていかなければならない。アハズヤという人物はこれから働きをしていこうというタイミングで、欄干から落ちて、病気になった。この先の働きはもちろん、王としての責任を果たしていくことができない。ひょっとしたら、命が危ぶまれている状況であるかもしれないと薄々感じていたのだ。その故に彼はエクロンに立てられたバアルゼブブに自らの人生について伺いを立てるために使者を送ることになる。先日、祈祷会の際にこのところを語らせていただいた。人が病気になって神に願うならば「病気を癒してくれ」というのが本来のそれである。しかし、彼は「自分がどうなるのかを聞いてこい」というのである。これは何を私たちに伝えようとしているのか。それは人間が一番陥ってしまいやすいことは神に寄り縋るのではなく、結局は自分のしたいようにことを運ぼうとしてしまいやすいということである。神に寄り縋って癒されたのならば、そのあとは神のいうことを聞かなければならなくなる。だからこそ神によって癒されることを通して、神に借りを作ることはできないから、どうなるのかということだけを聞くのだという姿勢を取っているのである。これは人間の極めて愚かしい姿である。滅びるしかないといわれたら、その現実を受け入れるしかないのだ。
 神の提供しておられる救いとは、そこに悔い改めが、結び付けられていかなければならない。まず、救ってくださいという願いではなく、神との関係を回復するための悔い改めによる和解が必要であり、そこからそれをもって導かれた救いや、神の御旨がおこなわれるのである。これこそ、本来行われなければならない信仰者の営みである。しかし、その部分が分からないと罪という存在に回復不能にまで追い込まれてしまうのである。そのような姿が、このアハズヤから見えてくる。回復を求めることすらせずに、「わたしがどのようになるのかだけ教えてくれ」「そのぐらいでよいのだ。ほっといてくれ」というような態度になる。しかし、それほど人間が自分で自分のことに対処できるかというと、結局何もできないのだ。そして、人間の愚かしさ、弱さ、罪深さをあらわすしかないのである。列王記Ⅱを書き上げた預言者のともがらが最初に示したのは、このことである。この出来事の中で50人隊の長の姿勢も変わってくる。最初は横柄であり、二番目の者たちも少し言葉を変えているが、どちらも悔い改めて遜るまで行かなかった。それゆえに彼らは滅びることになる。エリヤのもとに来たこれらの者たちに降りかかった天からの炎。それはカルメル山でバアルの預言者と戦った際に祭壇に下った火である。これはエリヤの預言者としての力を象徴しているものだ。ここでもそのことがあらわされている。当然だがアハズヤは最初に自分の思いを知っている側近をエリヤのもとに送った。50人隊の長と隊員50名がいれば、赤子の手をひねるが如く彼の言葉を撤回させることができると思っていた。だからこそ、遣わされた者たちの態度も横柄で、簡単に事が行くとエリヤを侮っている姿が描かれている。二番目の隊は薄々「あれはカルメル山でバアルの預言者を破ったエリヤだ」と感づいて少し言葉を変えてはいるが結局同じ対応を彼にしたゆえに滅びをまねくことになる。ちょっとよくなったのだから、憐れみをかけてくれないかと彼らは思ったかもしれない。しかし、憐れみとはそのようなものではない。真心を持った遜りによって成り立つものが憐れみなのである。それによって人には変革が与えられるのである。3番目に来た50人隊の長とその隊員たちはエリヤであることを承知し、恐れをもって神の預言者の前に跪き、頭をたれてどのようにすべきかと彼に問うている。神の人に対する姿勢とはそのようなものである。「神の人よ降りてこい」というのは結局、神に対する恐れがお題目にしかなっていないことの表れである。だからこそエリヤは「わたしが神の人なら火が下ってくる」と言い、事実その通りになった。エリヤは3番目の者たちの姿を取り上げながら、本来アハズヤがしなければならない姿勢はこのようなものであるということを示した。それにより、彼が遜ることを望んだのである。しかし、彼は変わることなく、結果として同じ預言を再び語られ、滅びることになってしまったのだ。私たちは神を知るものとして、常に遜って、自分が何をすべきかを神に問い続ける必要があるのだ。それでこそ信仰者の姿であり、神の恵みが導かれていくのである。信仰をもって導かれて生きているが、なお弱さを持っている。それが、傲慢にしてしまったり、感情に支配されてしまったりする。王の命令を聞いただけなのに滅ぼされてしまうのはどういうことだ。「アハズヤだけが滅びればよかったのに」といつの間にか、初めに語ったように現状を感情的に捉えて私たちが聖言から真理を見出すことができないということにつながってしまう。私たちも自らの信仰生活の中に、豊かな神の必要を拝しながら遜って自らの救いを全うさせていただきたい。そして、さらに自らの愛するものを救いへと導くものとなっていきたい。愛する者たちに見せていく光景は「私たちが遜って頭を垂れて、畏れている姿」そして「救いと憐れみに対する感謝をもって生きる姿」である。エリヤが自らの姿を通して、遜りを迫るようにと神に用いられたように、私たちもなおその姿勢を示し続けていきたく願う。


Q:アハズヤの話にも通じますが、先日の礼拝の中で御霊が共に歩んでくださるという話がなされました。日々の生活の中で失敗を経験することがあると、くよくよして悩みの中に陥りがちです。そのようなときにもう一度遜って神との関係を回復させていくことが必要であるということでいいですか。

A:もちろんそのとおりである。ただ、同じことの繰り返しは慣れを生む。それは遜りができないようなことが起こってきたり、改善されずに、開き直ってしまったりすることがある。それは食い止めていかなければならない。変えるということはそれほど難しい。それをどうやって前進させていくかが大切である。自らを改善させる策を産み出していく必要がある。悔いることは比較的に簡単にできるが、それで満足していてはいけない。だからこそ、必要なものとして私が挙げるのは、自らに刑罰をかけることである。ただしこれも、自分に自分でかけるものだから甘くなってしまうこともある。そのようなことに策を打っていかなければならない。感情でなされているような後悔ではなく、負の連鎖が起こって物事がどうなってしまっているのかを確かめ、追いかけていかなければならない。自分が犯したことによってどれだけのものになっているかを見つめていかなければならない。それによって被害の実情や、それによる回復がどれだけ大変かということが見えてくる。問題の調査ですら、感情によってなされているようでは、対策も何もできなくなってしまう。自分で自分のことを考えているうちは一番それがなされない。だからこそ自分の一番苦手な相手にその部分を担ってもらうことが一番良い。そのようにして対策を打っていくと改善が導かれていく。聖書がどのように告げているかに目を留めていく必要がある。感情、主観から自分を解放していく必要がある。聖言は大切だが、聖言にも慣れてしまっている可能性もある。新しい方面から聖言の示しを求めていかなければならない。克服や賠償はそんなに簡単なものではない。賠償額の高さで物事も懲りることがある。様々な方法を試してみるとよい。あとは、聖霊が語ってくださる瞬間を待つ時間を作る必要がある。静まって、聞くことができるようにすればよいのだ。以前ネットで面白い動画を見た。それは学生に向かってある教授が人生をたとえるために行った授業だった。教授は大きな瓶をもってきてそれにゴルフボールを口までいっぱいに入れた。そして学生に「ゴルフボールがいっぱい入った。この瓶は確かに満杯に見えてゴルフボールは入らない。しかし、小石なら入る」と今度はゴルフボールの隙間に石を詰めていった。それもいっぱいになると今度は砂を、とどんどん小さくして最後には水を入れた。もう入らないかに見えた瓶の中はどんどんといろいろなものが詰められていく。そして教授は最後にこう言った。「ゴルフボールは人生において本当に必要なもの。そこからだんだん小さくなるにつれて価値が落ちていく。水はビールだ。いくらでも入る。ただ、これを逆からやったらどうだろう。最初から水でいっぱいにしてしまったら、もう何も入らない。ゴルフボールなんて到底入らなくなる。大切なものを入れる前に大切ではないものを入れると、人生という瓶はあっという間にはいらなくなるのだ」と。これは誰にでも同じである。私たちは神を第一にしなさいと言われている。神はドッチボールだ。一番に入れていかなければ到底入らない。聖書には汝の若き日にあなたの創造者を覚えよという聖句がある。この聖句とこの出来事は同じである。若くて、まだまだ器に物が入っていないうちに大切な神の存在を置いていかなければならない。そうでなければ、ほかの物が入り切ってしまったら、聖霊の細き御声も聞こえずに終わってしまうのである。


Q:死に至る罪って何ですか。

A:聖霊が私たちを罪から贖ってくださる大切な役割を与えていてくださる。どんな罪を犯した人にも「罪を悔い改めていくんですよ」と声をかけていてくださる。それによって罪を悔い改めようとできる。そのためにも聖霊が命綱になるのだ。しかし、それを拒否する人がいる。私は大丈夫、そんなものはいらないというと、それが死に至る罪になる。聖霊なる神は私たちのそばにいて私たちを助けてくださる大切な存在なのである。だからこそ、聖霊との親しい交わりが確かに持たれていく必要があるのだ。


Q:ダビデの家臣についての話が以前なされた際に彼は重役を同じ地位に二人立てるようにして、家臣同士を競わせて成長させていったと語られたときがありましたが、ダビデはどのように将軍などを採用していったのですか。

A:当然、将軍には武勇というものは重要ではあるが、勇士と呼ばれる者たちが将軍になったかというとそうではない。そこには戦争に勝つだけの指揮能力も必要だった。なぜなら将軍は軍を率いる必要があるからだ。ただ一方で、軍を率いるからこそ王は将軍がクーデターを起こさない、または起こしたときに対処ができるように考えている必要があった。ゆえに将軍という立場に信頼できるものを選んでいるということもある。ダビデの場合は、同等の立場の者を2人立てることによって、互いに競わせるだけでなく、監視するような役割としていたのだ。それによって互いにけん制しつつ、クーデターを防ぐことができるようにしたのである。
戦争は本当に恐ろしいものである。時に戦争の中で将軍は兵士に命を捨てるということを命令しなければならない。激化しているあの戦地に送れば、何人が戻ってこられるかというようなことを考えながら、「あなたはあそこに行って戦ってきなさい」と部下にいうのだ。こんな恐ろしいことはない。私たちの身の回りにはこのような形で命を懸けるということはないが、同じように様々な形をもってして、命を懸けるような瞬間がある。人間は甘かったり、おちゃらけたり、そのようなもので物事を考えることはできる。しかし、それほど簡単なものではない。ものを考えて、ことを進めていくということを身に着けると、言動も、人格のとらえ方も、事象のとらえ方も変わってくる。自らの成長とともに変わるということが重要である。人間にとって一番怖いことは、周りが変わっているのにもかかわらず、考えが変わらなくなってしまうということである。コミュニケーションをとってみるとそのような人がいる。何かをやるために、このようなことに取り組んでいきましょう。こうしていきましょうなどと伝えても、思考が停止してしまいなかなか話が進まない。「それはよくわからないんですけど、、できないんですけど、、」と自分がどうしていかなければならないかが考えられない。そうなってしまえば、話は終わる。一番重要なのは、常にいろいろな問題や課題に関心を持ち、どのように行動すべきか、判断すべきかを考えるということを生活の中に取り入れていくということなのだ。明日事故にあって足を一本失ってしまったとしたら、人生は変わってしまうだろう。そのようなことを少し考えてシミュレートしていくと思考は変わってくる。例えば事故を起こして人が亡くなってしまったとしよう。相手がどれだけ悪かろうとも、お金でどうに示談になろうとも、人を殺してしまったという事実はどうやっても消すことはできない。そのようなことを考えていくことができるか、そのレベルで判断していくことができるかが重要なのである。それによって人間の物事に対する組み立ての違いが出てくるのである。そのような緊張感が奥さんとの関係の中にもあったり、それが更に伝播して子どもたちにも伝わったりする。それによって家庭の緊張感というものが保たれていくのだ。奥さんは緊張感が強すぎれば、多少和らげて家庭の空気づくりをしたりもする。もちろんあなたもたまにはおちゃらけてみるということもあるかもしれない。ただ、そのように考えは持ち続けて日々の中で危険を回避したり、遠ざかっていたりする必要があるのだ。そのようにしていくと、ものごとは柔軟に考えていくことができるのだ。ダビデは神の守りの御手に常に感謝し、それから外れることなく過ごしていた人物である。しかし、それで彼は何もしないかというとそうではなく、先ほどあなたが言ったように、将軍をわざわざ二人立て、競わせ、相手を監視させクーデターを行わせないように対処していたのだ。ただ、ヨアブという人物はその相手をみんな何らかの形で殺してしまった。ダビデにとってヨアブは手ごわく、だからと言って簡単に罷免できるほど安い人物でもなかった。有能であるがゆえに手放すのが惜しい人物だったのだ。私たちも同じである。世の中にはそのような人が多くいる。どのようにして関わっていくかということが重要なのだ。ひいてはあなたが娘の旦那にどのようにかかわるかということと同じである。当分先の話であるが、そのようなことを何年も前から考え、積み立てていかなければならない。神は私たちに一発で力を与えるような方ではない。一つ一つの物事を通してどのようにすればよいのかを教えてくださるのである。様々なものを蓄積しながら、父親として家庭を守っていく力を獲得していってほしい。


Q:デボーションの中で詩篇の27篇を取り上げて学んだのですが、ダビデはこの個所をどのような時期に書いたのでしょうか。

A:詩篇はダビデがどの時期に書いたかということを結びつけるのが難しい。勿論、その時期が明確にされているものもあるが、そこが重要なのではない。詩篇は信仰者の真実な神への訴えとしてとらえるしかない。あなたが読んで何を感じたかというところから話を始めていかなければならない。詩篇はダビデがどの時期になぜ書いたかという背景的なものを含めた第三者的なとらえ方ではなく、読んだときにどう感じたという心の吐露から始めていくほうが良い。あなたが、どの聖言のどのようなところに目が留まったという形から話が進められていく必要がある。詩篇は信仰者の叫びであるというところから、自らの叫びと合わせて考えていく必要があるのだ。


Q:(上記に続き)私自身は4節『私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。』のようなダビデの心を持ち続けていきたいという思いが与えられました。生活の中で問題が起こってくるとそれにばかり目が向いている自分に気が付きました。また、新しい年が始まってからも朝に聖書を開くことができず、自分で時間が作れた時に静まって聖書を開いているという状況のなか、今日はこの聖言に自分と同じような状況にダビデもあったのかと目が留まりました。

A:私もそう思う。ダビデは静かで心休まる中でそのように歌ったのではなく、あなたと同じようにもうどうしたらよいか、日々追われているような中にいて、そこからいつ解放されるのかという思いの中で歌ったのだ。聖書はそのように解釈すべきである。書いてある字面通りではない。人間が歌にするということはそれほどの思いが背後に隠されている。何もなく、穏やかに過ぎていることを歌にはしない。あなたと同じような思いをダビデも抱いていたのである。そして同じような思いを抱いている人は多くいる。みんながみんなできているわけではない。私だっていまだに、「神よあなたを信じるものにさせてください」と祈る。「あなたの言葉を日々語らせていただき、あなたを信じるこの喜びに感謝をいたします」ではない。むしろ「なぜあなたを信じ続けることができないのですか」という叫びをあげることだってある。神はそんな私に「何をやっているのだ」と言われる方ではない。神はそのような叫びを聞いて、憐れみ、贖ってくださる。先月ある姉妹がこの会の中で「私はある兄弟の健康のために祈っていたはずなのに、いつの間にか、自分の祈りになっていました。こんな祈りではいけないですよね」と語っていましたが、それこそが祈りの姿勢、本質なのである。人のために祈っていると思ったらいつの間にか「主よ私も救ってください」「助けてください」というのが正直な人間の姿なのである。実際にはそれこそ神が望んでおられる姿であり、それゆえに私たちを憐れんでくださるのである。ルカの福音書18章10節からのところにパリサイ人と取税人の祈りの姿が描かれている。パリサイ人が「この取税人のようではないことを、感謝します」と祈っているのに対し、取税人は「神さま。こんな罪人の私を憐れんでください」と祈った。イエス・キリストはこの二人を取り上げ、取税人の方が義と認められたと語っている。私たちの本当の姿は取税人のように罪深いものであることを正直に見つめ、告白するべきである。それによって神から愛していただき、憐れんでいただくからこそ、人を愛することができるのである。だからこそ、私たちは神の愛を祈り求めるべきである。そのような姿をみて、「何やっているんでしょうね」という人ほど、問題がある。そう考えてしまったのなら、もう一度自分を見つめなおさなければならない。ダビデは大いに神の愛を渇望した。あなたも信仰生活の中に抱えているものがあるなら、訴えていくとよい。あなたが自身の信仰の中で得た叫びを祈りの中で聖霊がともに叫んでいてくださっている。
あなたのデボーションは十分に健全な形で行われている。同じ時間に持つというのは確かにできるとよいが、そうならないときもある。また私自身、定まった時間に行っているが、調子のよい時とそうでないときで差が大きいことも自覚している。真実に神に仕えているときと半分居眠りしているような中でしているときもある。そういう時は確かに神に対し申し訳ないという思いがある。  話は飛躍するようだが、私たちは神を知ろうと思うならば、隣人を良く知る必要がある。なぜなら私たちは神を隣人である人格者としてとらえなければならないからだ。神をただ崇め奉る神という存在としているようでは本当の神との交わりは行われない。私にとって妻は隣人である。妻との関りの中で私は神という方の扱いを豊かに受けることができる。神という方を人格者として捉えようとすると、勝手に神像を作ってしまう。本当の意味での人格的な交わりをしているのではなく、自分の好きなようにイメージし頭を垂れて満足してしまう。人格というものは喜びも、悲しみも、怒りも、妬みも持っておられる。神からそのような要素を取り除いてはならないのだ。日本人はどうしても神を崇高な存在にして、それを拝むことだけで満足する。自己満足で終わってしまうのだ。しかし、実際の神は人格であるからこそ、私たちの行いに対して、様々なアクションを返して下さる。私は妻とのやり取りの中で、私が愛していると思って表していても「それで愛しているつもりなの?」と言われてしまうこともある。神とのやり取りもそういうものである。だからこそ隣人の中に神がいると考えていく必要がある。あなたは思い通りにいかない旦那さんにいら立つことがあるでしょう。同じように神に対してもいら立ってもよい。ただ、旦那さんに対してそう考えたときに、同時に神に対していら立っているということをどのように自分の中で吟味していくかが大切なのである。そうやって神をとらえないと極端な言い方だが偶像を拝むことと一緒になってしまうのだ。神の姿は伴侶であり、子どもであり、同僚である。その人々を相手にしながら、いらだち、揺れ動き、困惑し、一喜一憂する自分をどうとらえていくか。その中でどう相手を愛せるかが重要なのである。神は私たちの思い通りに動かれるお方ではない。理想像の神は尊敬できて、いら立たないようにしてくれるかもしれないが、それは真の神ではない。そのように思っているうちは相手が自分に合わせてくれると考え、自分を吟味して変革しようとは思わないのだ。しかし本来の神は、あなたをいら立たせることもある。思うようにならないからだ。そのようなことをあなたは隣人との関りの中で知っていく必要がある。旦那の言うことを聞けないとあなたが相手に怒るときは神に怒っていることと同じである。「いや私は神ではなく、旦那に怒っているんです」と思うかもしれないがそうではない。旦那さんに怒りを覚えるのではなく、神に怒りを覚えているのだ。旦那さんに対して怒りではなく、愛をもって関わることができたときに本当の意味で神が分かるのである。だからこそ、旦那さんと共に成長し、尊敬しあい、いたわりあうことができると信仰的に成長することもできるのである。聖書はくどいほど人格者なる神の姿を現している。そしてイエス・キリストも汝のごとくその隣人を愛しなさいと語っておられる。あなたの長男、次男ともそのような交わりを必要とする。以前出た話で相性のことがあった。もちろん相性というものは人間関係から切り離せないことである。ただ、神との相性ってどういうことなのだろうか。「神と私って相性合わないな」ではなく、共に交わりをもって生きていくことができるかが重要なのである。神と本気になってそのことをし始めると私たちは変わる。聖霊が神の人格を示し、教えてくださるのだ。
 老牧師に仕え続けた信者さんたちと話をすると、畏れの中でも相手を敬い、仕え続けたという話になる。そこにはどうしようもない苦しみや、いら立ちの感情もあった。しかし、それでもその関係の中で相手を愛し続けたということに話は帰結する。「この年になってもまだそんな言われ方をしなければならないのか」と言っていた人もいた。それに一緒に涙した。ただ、神も同じでいつまでも普遍的にあなたに語り続けておられる。何歳になったとしても必要ならば語られる。老牧師は神ではない。しかし、老牧師の中に神の普遍的存在を見出すことができるか。そのようなことがわかると信仰者として神の御旨の中を生きるということがわかるのである。まずは隣人とやり取りをしっかり行ってほしい。その中で神を見出すことができるだろう。その様に行って初めて真の神が見えてくるはずである。


Q:先ほどの話を聞いていて、耳が痛い思いがあります。主人が仕事の架橋で忙しく、私も切羽詰まっていて、なかなかコミュニケーションをとることができない日が続いています。Lineで共有することもありますが、それでもうまくいかなくてもやもやしてしまうことが多いです。

A:そのような思いは貯めておくとよい。「どこで取り返してくれんの?」というようなスタンスでいればよい。「あなたが足りていない」というような状況を旦那さんに伝えていかなければならない。あなた1人で3人の子どもを見て、旦那さんは仕事で北海道に行っている。確かに仕事ではあるが、だからといって、あなたが我慢し続ける必要はない。もちろんそれを伝えたときに旦那さんが応えてくれないなら、次の段階は家庭集会でそのような話題を出すとよい。相手に自分の気持ちは素直に伝えていくとよい。それは祈りの中で神に伝えていくのと同じである。それを正しく行っていかないと「あの人は私の思いを少しもわかってくれない」と不満を持ち続けることになってしまう。それは先ほどの話と合わせるなら、神に対してそのような思いをもって怒っているのと同じになってしまう。心にある思いを正直にあらわしていく必要があるし、そこに相手への伝え方も愛をもって考えていかなければならない。「足らない足らない」とただ言って、いら立ちを貯めると、それは子どもたちに蓄えられてしまうことがある。「お父さんは何もしてくれない。助けてくれない。神を信じて隣人を愛していますというけどどんなものなのか」などと子どもたちの前で言ってしまい、知らないうちにそのような鬱憤が蓄えられてしまうこともあるのだ。それは子どもを自らの感情のゴミ箱にしてしまうのと同じである。人間の社会も弱いものにゴミを捨ててしまいやすい。そしてゴミを他の人に捨てられないような弱い立場の者たちにどんどんとゴミを蓄えさせ、心に悪影響を与えてしまうのである。自分の思いを相手に伝えることは本当に難しい。神へと自分の思いを伝えることと同じように、すなおに吐露できるかが重要になる。ただ、それができると神がご自身をあらわしてくださることが分かるようになる。信仰はただ、「えいえいおー」と気合をもって行うことで満たされるものではない。神に語ること、交わりを持つことによって慈しみと恵みとが覆ってくださることがわかってはじめて心から満たされるものとなるのである。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)