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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-157 —
   -- 2024年6月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 5章

 今日の5章のところはアラムの将軍ナアマンについての出来事が語られているとても興味深い箇所である。ここにはその時代のことが描かれているだけでなく、イスラエルの神、主に仕えるものやイスラエルの王たち、隣国のアラムの者たちのことが詳しく書かれている。先日は預言者のともがらの家族や、預言者たちとともに生きていた者たちなどが取り上げられた。それは当時のイスラエルのとある家庭が取り上げられたのである。そこから、今回は隣国にまで話が広がり、敵国のナアマンという将軍について語られている。ナアマンはツァラアトに犯されていた。その病によって彼は絶望の中にいたのだ。だからこそ、そこから解放されることを望み続けていたのである。
 日本はキリスト教徒というか、宗教自体の広まりがあまりない。だからこそ、宗教自体に距離感があり、神という存在自体の認識もあまりないと言っていいだろう。この国で神に出会い、救われるということもなかなか難しいことである。だからこそ大切なのは、神を見出し、神を身近に置き、その方のそばで生きていくことである。それを特に感じさせるのが、この章の後半に書かれているゲハジの物語である。これによって私たちは神を信じ、共に生きるということについて考えることができる。ゲハジはエリシャに仕え、神の業が行われるところ、神に近いところで生きていた。それにもかかわらず、本当の意味で従順に神に仕えることができず結局は自分の欲から罪へと走ってしまった姿が描かれている。ここからわかるように宗教には環境が重要ではあるが、環境さえ整っていればよいかというとそうではない。信仰の継承のために子どもたちにできる限り良い環境をと、私たちはそれらを整えるようにしている。しかし、それだけで救いが与えられるわけではない。救いに出会うということは神の憐れみ、恵みであり、私たちへの神の選びと応答があって初めて行われるのである。私たちが救われたのはひとえに神の恵みであったことを感謝し畏れかしこみ、生きていかなければならない。
 今日はメインの話として、ナアマンのことを取り上げていきたいが、この一連の出来事を見ていると本来の真の神、主の扱い方、救い方とはかけ離れていることがわかる。ナアマンはイスラエルから捕虜として連れてきた女の言葉を聞いて、神の預言者のもとへと行くことになる。そのために自国の王に手紙を書かせ、さらに護衛を伴いながらイスラエルへとやってきた。そしてエリシャのもとを訪れたにもかかわらず、顔も出さずにヨルダン川で体を洗うように求められる。これまでの一般常識的、神の御業の形やナアマンとしても思い描いていた神の人の救い方のそれとは異なっていた。エリシャが手を置いて神の名によって祈ることで癒されると思い込んでいたのである。だからこそ、ナアマンはこのことに怒り、帰ろうとまでしていた。先日、悪霊につかれた子どものためにイエス・キリストのもとへ行った女が「子犬も主人の食卓から落ちたパンくずはいただきます」と遜っていったことを取り上げたが反対にこのところでナアマンはエリシャを介して行われた神のお扱いに腹を立てたことが書かれている。ナアマンはエリシャのもとで癒しを願っているにもかかわらず、言われたことが自分の思い通りの仕方ではないことから怒り、一度帰ろうとした。そこに彼の傲慢が現れている。しかし、彼をそうさせるだけの功績が彼にはあった。彼はリモンの神殿で王のそばに仕えるものであり、彼に王が寄りかかっているほど、信頼されているのだ。それほどの地位と権威が彼にはあった。しかし、彼が絶望するもの、そのいのちを脅かすものに対しては何の効果もなかった。そこから救い出せるのは神だけであり、その御力をもってしか救われないのである。だからこそ、それを表すようにエリシャは姿も見せず、使いを送ってことを行ったのだ。ナアマンは確かにここで腹を立て帰ろうとした。しかし、彼の僕が彼を引き留め、言われたことを実行してみるようにと促したのだ。そのことばに彼は耳を傾け、その意味で遜って言われるがままに行ったことで癒されたのである。
 その後、彼は礼拝すべき真の神に出会ったことで遜って救いを受けたのである。彼の真実は祭壇のための土を求め、また真の神以外に頭を下げることへの許可を受け帰っていくことになる。ナアマンの絶望は喜びに代わり帰っていくこととなる。
 この出来事をさかのぼればその最初はイスラエルから捕虜として連れ去られた一人の名もない女性である。福音は思いがけないところから語られる。その初めは決して巧妙な語り手の言葉だけではないのである。だからこそ、そのような人格になることを求める必要はない。まっすぐに神を信じ、導かれた場所で自らの信仰を証しするものとなることこそ、私たちに求められているのである。

Q:今日取り上げられたところで、人と神の思いの差異というかナアマンの願いと神の応えが全く思った形ではなかったことが書かれていますが、そのようにするのはなぜですか。

A:結果的にナアマンにイスラエルには真の神がいるということを確かなものとすることが目的としてなされている。ナアマンのやろうとした方法で物事が動くと、彼はイスラエルの真の神に出会うことはできなかった。なぜならそれでは人間の思いの中の神の姿から解放されないからである。しかし実際の神は、私たちが思い描けるような方ではない。だからこそ、ここで彼の思うような形ではない、思い通りではない状況でこそ神の業がなされ、その救いが全うされる必要があったのだ。それによって彼は、命じられたことを信じて行った先に真の神を見出し、人間の思惑の中にとらわれるような神ではないこと、思い通りになる神ではないということを気づき、畏れとその憐れみの深さに神の姿を見出したのである。その事実こそが、唯一真の神の御力を表すのである。  思ったようにならないということは当然である。自分の理解で物事を進めていき、神を見出そうと思えば思うほど、自らが設定した枠から飛び出すことができない。しかし、ナアマンにとって良かったのは側近の者に「難しいことだったらしたのか」と迫るように促されてその言葉に耳を傾けたことである。そこで自分を愛する者の言葉を信じ、遜れるものであったからこそ、ここで神の救いを見出すことができたのだ。

Q:聖書日課で申命記を読んでいて、「怖気づいたイスラエル」の姿が描かれていました。その姿を見ていて神の怒りが現れていたように思います。私は失敗したときに次の行動に怖気づいてしまう時があります。ナアマンのこの記事も見させていただき、私たちの考えつかないところに神のご意志があることを知らされましたが、恐れてしまうことも多くあります。どのようにしていけばよいのでしょうか。

A:単発な物事に対する恐れということが語られていると思う。実際、私たちは様々な選択の時や日々の中で恐れを覚えるが、その時に何に重きを置いて行動するかが重要である。やらなければならない時にそれを相手に押し付けて逃げたり、好きなことはやるが、いやなことはやらなかったり、そういうことをあえて選んでいるような状況には注意をしていかなければならない。そこでは本当に必要な責任は果たされていないことになる。なぜなら私たちが神を信じ、畏れて、自らがしなければならないことを選び取っていかなければならなかったにもかかわらず、それをしなかったということになるからである。先日の礼拝でも語ったが、イエス・キリストに贖われた者たちがそのまま自らの好きなように生きていることは「おかしい」ということと同じである。豊かな恵み祝福を受けたものであるならば、主と同じように私たちも自分の十字架を負って敵を赦し、愛する必要がある。そこに責任があると言われているのである。だからこそ、私たちは神を信じ、そのご意志がすべてわからなくとも、信じて、行っていかなければならないのである。そうすれば、神は私たちに思いがけない形で守りや必要なものを用意していてくださるのである。その恵みが豊かに積み重なって私たちから真の意味での恐れが払拭されていくのである。

Q:クリスチャンではない叔父と話をしているときに、「今イスラエルの方は戦争が多いけれど、なぜ、神は初めにイスラエルを選んだのか」と言われました。当たり前のようにとらえすぎて、明確な答えが見つけ出せなかったのですが、どのようにとらえればよいのでしょうか。

A:それは一方的な神の選びであり、そのはじめの人アブラハムがいて、神が憐れみとして彼を選んだということに尽きるのである。それは、なぜ私たちが今、救われているのかということと同じである。聖霊が働かれ、それに私たちが応えたからこそ、そこに救いが与えられているのである。それはアルミニウスが語ったことである。またウェスレーもそうだが、先行恩寵という御業が強い。先行恩寵とはあらかじめ、神が私たちに語りかけた際に私たちの側にそれを受け止めるような心の働きが与えられているということである。人間自体にはそれを受け止めるような力も真実もない。ただ、そこに恩寵として先んじて与えられたものがあるからこそ、神の言葉を受け止め応答することができ、救いへと至れるのである。これが私たちの宗派が取り上げる救いということへの信じ方である。ほかには神があらかじめ決めておられたものが救われるというカルビニズムの考え方もある。しかし、その考えでいくならば、神が救おうとされていないのにも関わらず、選ばれなかった者たちを裁くことはできないだろうと考えることができる。ただ一方で先ほども語ったように私たちの意志だけで救いに至れるかというとそうではないと考えられている。だからこそ、私たちは先行恩寵という形で事前に私たちにはその機会が与えられ、また、自由意志が与えられているからこそ、その中で神を信じるものが救いへと至るというとらえ方をしているのである。
 また、現在のイスラエルの姿から見るならば宗教戦争とはいわれているが、結局は人間の欲の戦いである。大義名分として出している部分もある。また、あなたがおじさんの質問に応えられなかったことを残念に思う必要はない。応えられないことを正直にあらわし、その姿勢を貫く方が良いこともある。質問にスパッと答えられるようなほど知識や十分な証明があるから信じたのではなく心でそのことを受け止め私は信じているということを訴えるほうが良いこともあるのだ。「我ただこれを知る。わがたまの頼む主は。かの日に至るまで守り得たもうと」という讃美があるが本当にこれに尽きる。神の身元に行く日までは何もわからないかもしれないが、その日に与えられることを信じているということが証になるのだ。ナアマンのところでも語ったように、信じるということが何より重要なのである。

Q:福音宣教という言葉をあまりこの教会は使わないですが、そこに意図はあるのでしょうか。福音という言葉は聞きますが、前の教会ではそれとセットのように宣教という言葉があったので、そこに何か意図があるのか知りたかったのですが。

A:特にない。私のボキャブラリーの中で定着していないからそのような使い方をしているだけである。どちらかというと福音という言葉の中にすべてを含有しているイメージなのだ。教会全体がその言葉を聞いたときにイメージできると語る方も聞く方も伝わりやすい。だからこそ、私は言葉によるイメージを作ろうと意識している。今まで私たちの教会では広く宣教という形でことが行われてこなかった。どちらかというと、まず、家庭に神を伝えていくということを重要視していたのである。そこから、だんだんと家庭と教会が安定し始めたからこそ、次にこの教会でも外へと伝道の働きを行うことが増えている。これからこの教会も福音宣教という言葉が浸透していく教会になってほしいと願う。それによって言葉と同時に行動が伴われ、豊かに福音が広められていくようになってほしい。ここ4、5年で福音の働きへと私たちの教会が動き始めている。そこに様々なビジョンが立て上げられ、ことがなされているのだ。福音宣教を通して主の救いが豊かに地域にもたらされること願う。

Q:先ほど取り上げられたところで、アラムとイスラエルの関係の中にはイスラエルの娘が略奪を受けていた事実もあるのに、アラムの王がイスラエルの王に僕を遣わしているような姿があります。当時はどのような位置関係にあったのでしょうか。

A:戦争とはいえ、ある一定の人道的な措置、やり方がある。歴史認識において第二次世界大戦が最も悲惨な戦争と呼ばれているが、基本的には一般人への被害を避けるような傾向はあった。収穫の時期を避けたり、戦場となる場所を考えたりということが実際は戦争を行う上で考えられているのだ。実際、当時の両者の関係性がわかるものではないが、そのようなことを交わせるような関係性にあったことは確かである。また当時のイスラエルの王がだれでどのようなものであったかはわからない。ただ、なぜアラムの王が将軍を癒すように自分に言ってきたかがわからないほど預言者との距離があったことを示している。聖書に明確に記載されていないから当時の状況もなかなかつかめない。聖書にはアラムに勝利したかと思えば、その次の章ではアラムの方が強いというようなことも描かれている時もあるように、それ自体を図ることは難しい。ただ、この出来事の面白いところはナアマンが動いたことの始まりをさかのぼれば、何の下調べもなく、イスラエルから捕えてきた娘が言ったことを信じたような状況が見えてくる。藁にも縋る思いだったのだろう。当時の社会性には宗教による癒しが密接にある。今は医学による癒しに傾いているが当時は迷信のようなものや、宗教による癒しが大きな地位を占めていた。だからこそ下調べもなかったゆえに余計にイスラエルの神はどのようにして癒すのかということもわからず、自分の信じる癒しをナアマンは思い描いて備えていた。だからこそ、余計に最初に語ったような状況が起こってきたのである。聖書には私たちに示される豊かなメッセージがある。このナアマンの出来事もそうである。ただナアマンを癒したことによって「イスラエルの神は力ある真の神である」という姿を表そうとされたのではない。信じて行う者を確かに救われる神がおられることが重要なのである。

Q:少し前のことなのですが、婦人会で「自立と自由」ということが語られました。「自由」というのが世の中で言うなんでも思い通りにできることではないということが分かったのですが、「自立」がそれにどのようにつながるのかがいまいちわからないのですが。

A:私たちがいう「自由」は神が私たちに与えられ、もたらされた自由ということを語っている。というのは、私たちが神を信じ、イエス・キリストの恵みに生き、そのご意思の中にいる時こそ本当の自由であり、世の中で言うところのしたいことをしたいままにすることが自由ではない。神の喜ぶことに喜び、怒るところに怒りを覚える時、私たちはこの世のしがらみから解放されて生きていくことができるということである。私たちのしたいことそれは欲である。世の中で言う自由とはこの欲のままに生きることである。しかし、実際そのようにしていると、自らの欲がかなえられないということが必ず起きてくる。なぜなら、欲は一つかなえられれば、さらに上へと膨らむからである。一定のままで満足することができない。だからこそ欲のままに生きれば最終的に欲に支配され、それがかなえられないことに大きな苦痛を覚えるようになるのだ。そして、そこから解放されたいとどんどんと苦しい方へと歩みを進めてしまう。それは自由ではない。本当の意味の自由はその欲から解放され、今、与えられていることに満足していくことである。しかし、欲そのものをなくしていくことは難しい。だからこそ、自らの欲というものではなく神のご意思を全うするというところに重きを置いていくときに、私たちは自らの欲を満足させることに価値を置かなくなり、現状に満足し欲から解放されて自由に至るのだ。
「自立」とは神を信じ、畏れて生きるものとして、神の恵みと祝福の中で他者に依存せずに生きることである。「自立」できないとは誰かの助けがなければ歩めない状況である。周りのだれかがいなくても、自らの責任と立場の中で生きるということができるようになるということが必要なのだ。自分の子どもに対峙していくときに子どもの必要に応えていくことができたり、他者に媚びることなく必要を主張できるようになったり、必要ならば自らの言わなければならないことが言えるということが重要なのだ。クリスチャンの歩みの中に生きることができるならばそのようにして、本当に必要なものを選び取っていくことができるのである。  全部を理解しなくてもよい。「自立」ということも一般的なことがらと全く違うわけではない。信仰者も神を信じ、神に与えられた力をもって自立していくということが必要なのである。

Q:信仰の自立ということを聞いていて私はそれが課題だと感じていたのですが、大人になって以前伝道師の先生に物事を訪ねた時「それはだんだんと自分で考えてから聞くということが大切です」と言われたのですが、それが「自立ということ」なのかと思いました。深く考えることなのかと感じさせられました。

A:自立とは与えられた責任に対してどのように思考し、整えていくかということである。頻繁にご主人が出張する中で三人の子どもを連れて、教会に来ている姉妹は、5歳、2歳、0歳の子をどのようにして扱うか。その手順をシミュレートしたり、不足、忘れ物がないように準備をしたりしていくのは大変なことである。そのような状況を理由にして集会に来ないということはできる。しかし、それでは本来得られるはずの恵みを損なうことであり、その足りない分を補えなければ、不足し、様々な問題が起こってくる。そのように歩んでいると最終的に神の憐れみだけを求め、自分のことを許してくれるような神像を作り上げ、勝手にそれで許されたようになって満足してしまい、本当の信仰から逸脱したものになってしまうのだ。また、今は奥さん側に視点を当てたが、旦那さん側にも求められているものがある。出張以外の時にどのように家族に対応していくか、家にいないことが多いのにあまりにも父親として、家長としての立場を主張して何かを指摘すれば、問題が起こってくることもあるし、反対に、だからと言って何も対策を打たないでいれば、父親としての機能を果たすことができずに終わってしまう。福音書にある「何を着るか、何を食べるか」ということが商売、仕事である。だからと言ってそれが全くない生活を送ることはできない。ただ、そのような中でどのように神の義を第一として行っていくかが重要なのである。神の御腕の業を信じて常に事を進めるからこそ私たちには失われない何かがあるのである。何度も言っているが、神が知恵と祝福を与えてくださっている。だからこそ、私たちはそれを用いてこの世に在って一面成功していく部分、祝福されていく部分があることを覚えていかなければならない。神を第一にするから、出張はできませんという姿勢を表して別方面から仕事でアプローチしていくという手法を取ることもあるが、このように、信仰を守りながらもチャレンジし続け、勝ち取っていくためにどのようにしていくかというのもまた重要なのである。それに霊的知恵を用いていくからこそ、本当に神を第一にしながらもこの世の中にあって神の祝福として成功に与かれるのである。前にこの聖書を学ぶ会の中でイスラエルの王ヨラムが戦いに赴き、さらにはそこに預言者を通した神の手が働かれたにもかかわらず、その戦いに勝利をすることができなかったということを語ったが、結局なさなければならないことができないならば、それは主を信じる信仰をもってのり越えていないということになるのだ。だからこそ、なお主に知恵を求めながら、私たちは一人一人が自立し、信仰によって考え、ことを行っていくものとならせていただきたい。

Q:コリント人への手紙Ⅱ6章2節「神の恵みを無駄に受けないようにしてください」と語られていますが、具体的にはどのようなことが神の恵みを無駄に受けるということで、そうしないためにどのようにしていけばよいのでしょうか。

A:神の恵みは様々なところから与えられている。その与えられたものを福音宣教や愛する子どもたち、伴侶者、家族と分かち合えるかということが重要なのではないだろうか。私たちはそのようなことを注意深く行っていけるかということが重要なのだ。私たちの品格にかかわる部分である。その部分が世との接点なのだ。今日取り上げたところもエリシャは相手から贈られたものを受け取らないという行動をとった。それはすべて神の一方的な憐れみゆえにことがなされたということをナアマンに現すためだった。対価があるからことが行われたのではないという姿勢を彼はとった。しかし、ゲハジは神の業がなされたということへの喜びよりも、ナアマンが持ってきたものに飛びついている事実が描かれている。神の御業が恵みであり、感謝すべき出来事なのである。それこそが重要なポイントにもかかわらず悪魔は晴れ着やお金という目先の欲求を満たすものをぶら下げてくる。だからこそ注意していかなければならない。私たちは祝福の業を見せられたという事実こそを喜ぶべきなのである。私はその恵みを見せられている者として、どのような導きを牧会者としてすべきかと恐れているのだ。私は以前悲しみの出来事に直面した。それはある会議のなかであまりにも内容がまとまらないことに怒りを覚えてしまったことで、本来祈らなければならない恵みを逃してしまったという出来事である。先日聖書研究会でダビデの呪の詩篇を学んだ。この呪いとは怒りからくるものである。神を愛するゆえにそのご意思を阻むものに怒りを覚え、呪うまでの思いを抱えているダビデが描かれているのだ。私も、そういう意味で怒りを覚えたのは確かである。しかし、それ故に祈るべき出来事が抜けてしまった。本当に愛の無さを思う。怒りに支配されることのないようにしていきたいと思う。そういう意味では、私には常に私と同じような怒りをもっている妻の存在がある。妻が先に怒ってくれるからこそ、私は冷静になれる。話は逸れるかもしれないが妻は私がばかにされたりすると本気になって怒ってくれる。それは私に対する愛である。愛は本来必要なタイミングで私たちに必要な感情を与えてくれる。妻が私を愛するがゆえに怒るように、神を愛するゆえに怒っている。ただ、怒ると同時に、他者への愛も全うできるものでありたいと願う。そのようにして愛の中を歩み続けていくことができるかが重要なのだ。社会生活での商売相手とのやり取りをしながらこのようなことを整えていくのは難しい。社会は上手に媚びてきたり、上に立って見下したりする。それに乗せられて気持ちよくなって、愛を逃してしまうようではいけない。呪うまではいかなくても怒りを覚える必要もあれば対峙してみたり、語ってみたりする必要がある。私たちが神の恵みを無駄にする最終的な形は神の恵みそのものが分からなくなるということである。それでは、与えられたものもわからず、感謝も、運用も、誰かに共有して喜ぶこともできない。上よりの豊かな愛を受けることができないのだ。このようになってはいけない。神の愛と恵みを日々数え、なお感謝とともに分かち合っていきたく願う。

Q:世の中には病気や交通事故がありますが、なぜ起きるのですか。罪があるからですか。

A:そうではない。神が罪あるものを裁こうと思ったら、この世に人間はいなくなってしまう。神は私たちの罪を知りながらもすぐ裁くようなことはせず、その終わりの時まで忍耐をもって見逃していてくださるのである。罪とはなにかあなたにはわかりますか。あなたにわかってほしい罪は、「神の望まれることをしない」ことや、「神が悲しむことをする」ことである。聖書には毒麦のたとえ話がある。ある人が畑に麦をまいたらその人の敵が夜のうちに来て毒麦をまいた。僕はそれを見て毒麦を抜きましょうと提案をした。しかし、主人は、そうはせず成長してその判別がつくようになったら刈ろうということにした。それは誤って毒麦と一緒に麦を抜いてしまわないためである。主人は確かな判別がつくその刈り取りの時まで、一緒に同じ畑で麦と毒麦を育てるのだ。それは麦を大切にするゆえである。同じように私たちも、その裁きの時まで一緒に育てられるのだ。一見罪にまみれて毒麦のように見えるかもしれないが、悔い改めて罪から解き放たれてその本当の姿である麦の姿を現すのだ。それを神が望まれている。悲しいことが起こるのにも神のご意志がある。それを見極めることが必要である。罪ゆえに事故や悲しい出来事が起こるのではないことは知っていてほしい。これからの人生の中で多くのことがらに出会うだろう。ただ、神の愛と恵み、その忍耐はいつも私たちの上にあることを忘れてはならない。だからこそ、罪を持ち続けたまま生きるのではなく、主イエス・キリストを信じて悔い改め、もう一度その愛の御手の中で生きるものとなってほしい。

 このときも豊かに学びの時がもたれたことに感謝し、またひと月歩まさせていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)