同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 創世記6章 —
<聖書を読みましょう>

「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」しかし、ノアは、主の心にかなっていた。これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」(創世記 6:5-11)

 創世記6章に入ると、「神の子ら」と「人の娘たち」という興味を引く表現があります。神の子らはセツに続くカインの後のアダムの子孫で、人というのはカインの子孫を差していることでしょう。残念ながらカインの子孫だけでなく、全部悪い人々になってしまったことが読み取れます。
「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」と。
 それで神は「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。・・・これらを造ったことを残念に思」われました。
「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない」(民数記 23:19)というのは、欲のために滅んだ異邦人預言者バラムの言葉ですが、神についての真理の言葉と思われていますから、神がご自分のなさったことを悔やまれたまれな記事です。

 聖書にはもう一カ所「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。」(サムエル記Ⅰ 15:11)とあります。イスラエルの人々の要望を受け入れて、彼らの気に入る人物を王に任じたためでした。サウルを捨てなければならないことに神が心を痛められたのです。この二カ所以外には「神が後悔された」という記事はみたことがありません。

 人の悪が地に満ちてしまったことに対する神のご決断は「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。」でした。神が人を滅ぼすときに残念に思われることは、ヨナ書のニネベの町について(ヨナ書 4:11)だけではありません。ソドムをはじめいつもそうなのです。
 神が人を滅ぼそうと決断されたとき目にとまったのがノアでした。彼は「正しい人、全き人、神と共に歩んだ人」でした。 彼にはセム、ハム、ヤペテという三人の息子がいて、みな結婚して妻がいました。
 神はノアに「船」ではなく、「箱」(契約の箱と同じことば)を造るようにといわれ、その長さ、幅、高さだけを指示されています。「箱船」と翻訳されていますが。どこかに航海していくのではありませんから、もっともたくさん荷が積める四角の台船のようなものであったしょう。 。