同労者

キリスト教—信徒の志す—

賛美歌物語


— 青年聖歌1番「ながまことは大いなり」 —


     作詞;トーマス・O・チショーム(1866-1960)
     作曲;ウィリアム・M・ランヤン(1870-1957)
     引照;「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
            主のあわれみは尽きないからだ。」(哀歌 3:22)

<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:賛美歌物語:
(これは、101 HYMN STORY by Kenneth W. Osbeck(KREGEL) の中から、有名な賛美歌を選んで、適宜、翻訳し、週報に連載したものです。)から許可をえて転載。

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    「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」(ヤコブ1:17)

    神のいつくしみとまことというテーマで作詞された最近の福音賛美歌中で、この賛美歌は卓越した光を放っている。多くの賛美歌が、ドラマチックな特別な体験から生み出されているのに対して、この賛美歌は、作者がただ、“朝毎に、神の個人的な誠実さを自覚”した結果、生み出された。
    トーマス・オバデヤ・チショームは、1866年7月29日ケンタッキー州フランクリンの粗末な丸太小屋に生まれた。高等学校や上級訓練の恩恵を受けることなしに、彼が初等教育を受けたその田舎の学校で、彼は学校の教師として働きはじめた。彼が21歳の時、彼の町の週刊新聞「フランクリン・フェイバリット」の共同編集者となった。それから6年後、彼は、フランクリンにおいて開催されたH・C・モリソン博士が導くリバイバル集会において、キリストを個人的な救い主として受け入れた。モリソン博士の招きに応じて、チショームは、ルーイビルへ引っ越し、モリソン博士の出版物(ペンテコスタル・ヘラルド)を担当する支配人兼、編集者となった。その後、チショームは、メソジストの牧師として任職されるが、短期間牧師職に留まっただけで、健康がすぐれないために辞職せざるを得なかった。その後、1909年、彼は、ウィノーナ・レイクで保険外務員となり、ついでニュージャージー州のバインランドへ移った。トーマス・チショームは、1953年、引退し、残りの生涯をニュージャージー州オーシャン・グラブにあるメソジストの老人ホームで過ごした。
    チショーム氏は、1200以上の詩を書いた。その多くは、サンデー・スクール・タイムズ、月刊ムーディ、週刊アライアンスといったキリスト教定期刊行誌上に、発表されたものであった。これらの誌の多くが、有名な賛美歌の詞となった。
    1941年の日付がある手紙の中で、チショーム氏は、「若い時期に健康を損ね、今もずっとそのような状態が続いているので、私の収入は、いつも、それほど豊かではなかった。それにも関わらず、私は、ここに、契約を守り続けられる神の、尽きることのない誠実さと、神が私のために備えられたすばらしい配慮をたくさん見せてくださったことについて、記録せずにはいられない。なぜなら、私は、驚くべき感謝に満たされているのだから。」と書いた。
    1923年、チショーム氏は、ムーディ聖書協会に関わっていた音楽家で、1957年7月29日に死ぬまで、ホープ出版社の編集者でもあったW.M.ランヤン牧師宛に、自分の書いた何編かの詩を送った。ランヤン牧師は、次のように書いた:
    この特別な詩は、私の作った曲が、その詩のメッセージを伝えるのにふさわしい曲となるようにと、真剣に祈らせる、そんなアピールを持った詩であった。そして、その後のこの賛美歌の用いられる歴史は、神がその祈りに答えてくださったことを示している。その曲は、1923年、カンザス州ボールドウィンで作られ、最初に発表されたのは、私の個人的な賛美歌集の中においてである。
    この賛美歌は、慕われたムーディ聖書学院の前学長、故ウィル・フートン博士が最も好きな賛美歌であった。そのため、その学校では、いつも、学生たちの最も好きな賛美歌であった。その結果、その有用性があらゆる福音的な教会に広まった。ビバリー・シェー氏(訳者注;高名な賛美歌独唱者・聖歌521番の作曲者)は、この賛美歌が、イギリスの聴衆に最初に紹介されたのは、1954年のビリー・グラハム クルセードにおいてであり、それ以来、その地においても、人気があると言っている。