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キリスト教—信徒の志す—

― Q&Aルーム ―

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-158 —
   -- 2024年7月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 6章

 この章には3つの話が書かれている。ただ3つ目は7章につながっているため、大きくは2つの話である。なぜ章をまたいでいるのかと思うところだが、ここに何かの区切りを設けながらも、6章とまたぐことで良いことと、悪いことのコントラストを描こうとしているのだろうと考えられる。また聖書には私たちの理解の及ぶ事と、そうではない事が存在するということも表している理解すべきである。それによって神の御心のすべてを私たちがはかり知ることはできないのだとわかるのである。しかし、神のみ旨を理解できないとすべてを投げ出してしまうのではなく、私たちの理解できるところはとらえながら聖書というものを読ませていただきたく願う。
この6章は内容としては理解しやすいものだが、何がそこに意志され、語られているのだろうかと探っていく必要がある。もちろん全く理解できないというところもあるだろう。しかし、それを慎重に扱いつつ必要以上に範囲を広めることはないが、少しずつ理解していきたく願う。
 はじめのところでは、エリシャと預言者のともがらたちの住んでいた家が手狭になったため、新しく住むところを作ろうということが提案として挙がったところだった。では、なぜ手狭になったのだろうか。それは、住む人が増えたというよりも、そこに集う人が増えたのだろうと考えられる。それによって、エリシャのもとに住居を広げるという提案が出たのだ。そしてその先を読むと、エリシャに対して共に行かないかという誘いがあったのだ。エリシャとともに生き、自分を変えようというものが増えていたのである。多くの人がエリシャの影響を受けていたのだ。そしてもう一つの話は、アラムの守備隊の話である。アラムの王が何かをしようとすると、それがすべて対処されてしまうということがらが起こってきたため、王はアラムにスパイがいるのではと考え始める。しかし、実際は、エリシャが王にこれから起こる出来事を伝えていたのだ。そして、そのことを知った王はエリシャを捕らえることによって処理しようとする。しかし、それもすべて見破られてしまった。
このところだけ読んでいくと、エリシャの力のように感じられるが、皆さんもご存じの通り、そこには神の力が働いているのである。先ほど語った住居が手狭になったのもエリシャのもとに神のみ旨を知りたいと思う者たちが集ったのである。それは人々が神を信じ、そのみ旨にきき従っていこうと思うが故であったのだ。このように神の言葉が語られていたことが書かれている。神はそのような中で様々なことを推し進め、御業をなしてくださっているのだ。沈んでしまった斧を浮かび上がらせてくださることも、敵が来るときには天の大軍勢をもって救われたことも、アラムの軍勢の目を見えなくし、攻め落とそうと思っていたサマリヤに連れていき、捕虜にするということもすべてが神の御業であり、私たちのために神が救いの御手を伸べて、ことをなしてくださったゆえである。  そのようなことが起こるのかと思われるようだが、この話の最後のアラムの軍勢が目的地に連れていかれたばかりではなく、もてなしも受け、返されたということも何とも面白い内容のように受け取れる。何とも、間抜けな姿のように見える。これによって彼らはもう二度とイスラエルの地に侵入してこなかったと締めくくられている。しかし、その次の節では早速、ベン・ハダデのことが書かれ、包囲されたという事実が書かれている。「二度と」と書きながら、なぜすぐにそれが変わったのかと思われるかもしれないが、実際の歴史の中である一定期間隔てて物事が繰り返されている事実をここで述べているのだ。ただ歴史を述べ伝えるために聖書は書かれているのではなく、最初にも語ったように、意図をもってまとめられているのだ。だからこそ、このところは筆者が3つの話をまとめて書くことによって表そうとした何かがあると言える。それこそが価値観である。編纂する者たちが意図してこの3つの話を書いたのである。一つの章の中で一方ではエリシャのもとに人が集い、盛んに神の聖言を聞くという恵みの時が書かれたが、もう一方では、飢饉とアラムの軍勢に包囲された故に飢えに瀕した状況の中、みんなが絶望していることが書かれている。それは人間がいかに信仰によって生きるのではなく、状況によって変化してしまうかという事実があらわされているのだ。状況が悪くなれば、不平不満、開き直り、最後には神の預言者を亡き者にしてやろうということも出てくるのだ。
6章の最後には、エリシャを殺しに来た者のなかに「みよこれは主からの禍だ。これ以上何を私は主に期待しなければならないのか」という言葉がある。ここから開き直ってしまっている事実が表されているのである。
6章を預言者のともがらが記しながら、伝えたかったことは神の憐れみは尽きないが、良い時も悪い時もその中にあって私たちがどのように信じ生きるかが重要であるという事実である。このイスラエルの歴史の現実を見ながら、考えさせていただき、自らを吟味させていただきたく願う。この私たちに与えられた救い、イエス・キリストの贖いを通して、神が与えてくださった信仰、聖霊とともに歩む日々の中にあって、なお信仰者として繰り返される困難と恵みを正しく生かさせていただきたく願う。

Q:先日の礼拝の時に「食い下がる余地を残してくださる神」について語られていましたが、今回のところでも、エリシャや王、預言者のともがらの前にそのようなポイントがあったように感じました。私も祈りのなかで答えが与えられる時やそれをじっと待ち続けていく時があります。

A:実際には、神が私たちに期待しているがゆえに、起こってくる営みなのである。ただこれは私たち信仰者だけでなく、神を信じていない者たちの上にも同じように起こってくる。彼らが何を目指し、期待し、じりじりとした中でことを進めていくかということが重要なのである。私たちの場合は特にそれが神を理由としているのか、それとも世の中の人々と同じ価値基準の中で行っているのかということである。
当然だが、神に期待している者は、神という人格、み旨に基準を置き、考え進めているのだ。だからこそそこに私たちの神に対する応答や、思いというものが込められるようになる。それによって神の人格(愛、導き、恵み、憐れみ)が判るようになるのだ。そこに到達できるかが重要であり、それを信じ期待していくからこそ私たちの信仰が形作られ、発展していくのである。これこそ、見えない神との霊的な交わりなのである。スキルアップもそのために必要なものである。ことがなるか、ならないかではなくそのような中を越えていけるかどうかということがポイントなのである。ことがなったから信じますというのはご利益宗教であり、普通の人と変わらない。しかし、私たちは信仰者として御業をどのようにとらえていくかということが伴っていく必要がある。思い通りでも、そうでなくてもそこに神のご意思を見出そうとしていく姿勢が重要なのだ。そのためには時に最初に述べた通りじりじりと忍耐しているような時間もあるかもしれない。それでも、神により縋って日々を歩むことが重要なのである。その中にこそ、神の応えが見えてくるのである。未熟さのゆえにしかし、退かずに神とともに生きるのか、大変だという理由から手を引いていくのかということが起こってくる。同じ信仰者の中にあって裁くわけではなくとも、手を引いてしまった人の姿が目に入る時もある。そのなかで他人事になってしまうのではなく、自らをその様な中にあてはめてみながら、どのように生きるべきかと考えていく必要があるのだ。 先日の礼拝で語ったツァラアトの最大の問題は礼拝に参加できないということである。それはつまり神の側から礼拝に参加できないという状況を提示されているということである。神から拒絶されてしまったら人はどうしたら良いのかということが求められていた。その状況の中でもあきらめてしまうのではなく、どのように自らを生かすのかということが重要になってくる。メシアとして来られている方のその救いの御手を求めていく必要がある。その求めにこそ、答えがある。救い主は救いを求めていないものたちをも救おうとされている。だからこそ、求めるものを見捨てるはずがないのだ。三位一体という語から神はお一人だということに力を入れて捉えやすい。それは誤りではない。しかし、一方で三位という事実も捉えていく必要がある。イエス・キリストにも意志があったのだ。だからこそ、父なる神のご意志だけでなく、そこに応えるイエス・キリストの独立した意志がある。私たちも祈りの際に、イエス・キリストの御名によってということを語る。イエス・キリストを通して、父なる神に願うのだ。ツァラアトという神の方からの拒絶があったとしても、そこへ救いの御手を伸べられるメシア、キリストの愛があるのだ。
世の中の人が長けているからこそ信仰者が及ばないと思ってしまうことがある。しかし、それは寂しいことである。そのような思いではなく、神から特別な形でみ旨が示され、私たちに神と共に信仰によって生きるということを通してあるべき姿が教えられているのである。それこそが「テーブルから落ちたものを食べる子犬」と言い表すまでの信仰の意志なのである。それこそが本当に必要なことなのである。

Q:信仰とは何ですか。

A:神を信じるということ。神は生きているということ。本当にいらっしゃると信じることである。しかし、神はその事実を隠されている。いるか、いないかがわからない。絶対的な答えを表そうとはされていないのだ。だからこそ、神より劣る人間には、神がいるということを知ることはできない。しかし、私たちは、それを信じるということを通して、その存在を知ることができるのである。力強くすべてのことがおできになる神が、愚かで弱く、力もない人間を救おうとされ、愛されている。だからこそ、神はイエス・キリストを私たちのもとに遣わされたのである。私たちが救われるのは、イエス・キリストを信じるということによるものだけである。そう信じることが必要なのだ。あなたも今後、神とイエス・キリストと出会うことができることを願っている。

Q:神様が私たちを愛してくださったから、私たちも互いに愛し合いなさいということが語られていましたが、神様が愛してくださっている事実をどのようにして神様を知らない人に伝えたらよいのでしょうか。

A:それは建前の出来事ではなく、自分の愛された経験を通して語ることが、福音的だと思う。自分の話を通して、それを聖書と結び合わせながら、伝えていくのだ。受け売りのようなものでは、本質には一歩足らないものになってしまう。しかし、自分が経験したものであるからこそ、誰かに伝えることができるのである。世の中の人に神が愛されているということを伝えるということは難しい。しかし、私たち自身がその愛に憩っていると伝えることはできるのである。
列王記の中では、揺れ動いているイスラエルが語られている。愛されている事実が分からないのだ。調子が良ければ、よいにかたむくが、トラブルがあるとすぐ神の愛が分からなくなる。そのようなものではいけない。だからこそ、私たちも家庭の中で信仰を受け継ぐとき、私たちの信仰、神との交わり、経験を通して、子どもたちに伝えていくということが大切なのである。あなたの祖母の信仰を通して、あなたが神を知ったように、誰かを通して、神に出会うということができるのだ。もちろん自分で聖書を読みながら、そこで出会う人もいる。そのように、神との出会いがあって初めて、神の愛を知るのだ。そこには理論ではない、私たちの経験が重要なのである。
教会に来て、救いを得るまでいかなくても、この人には何か違うものがあると思わせることが重要だ。そしてその事実を喜びながら生きるということが私たちには必要なのだ。

Q:公の場でお証や、お祈りをする際に、今までは9割以上作って原稿にまでしていたのですが、最近は時間がなくて、完ぺきにしていくことができずにいます。だからこそ自分の中で、どのくらい備えができていればよいのか、と悩むときがあります。完成度としては低くなってしまう時もあり、どうしたらよいのかと思うのですが。

A:質問されていることの趣旨は神を信じてゆだねる部分と、結果をどのようにして受け止めるかということだと私は感じる。日々の中で子どもや、旦那さん、ご両親にどのように対応していくかを考えていくと、間に合わない、どうしようもない、できないという部分が出てくるという事実が必ず出てくる。人間は本来物事に、キャパオーバーの状態で対応している。だからこそ置かれた状況の中で、即座に判断しなければならないということに出会うと対外、言い訳と後悔で生きなければならなくなる。「こういう理由でできなかったのだ」「仕方がない」と。そしてその先で問題が起こってくると世の中の人の多くは、更なる言い訳と後悔にがんじがらめになっていくことになる。しかし、私たち信仰者は神にゆだねるということを通して、そこから解放されることができる。
例えば、あなたが、語る中で「このように言おう」と思っていたのにメモなどの備えをしなくて言い忘れたということがあったのならば、それは、「今後の備え方を考えていく必要がある」と神から語られていると受けるか、または、「このことを話す必要があると私は思っていたが、そうではなくて、神がそれを止められたのだ」と受けることもできる。それが信仰者のとらえ方なのである。お祈りや、証しも準備をしなければならないと思っていても、実際は子どもに十分にかかわっているうちに、時間が無くなってしまうということも出てくる。しかし、それならその中で、神を信じ、できる中での備えをしてその時を迎えることで守りと助けの御業に期待するのである。キャパシティーのなかで全部できることに治めていくと、できることの範囲は小さくなっていってしまう。これまでの話の中でたった5分でも愛を実行できるということを語ってきていたが、その5分でできることとはいえ、積もれば時間は削られていく。そうなっていけばキャパシティーは優に超えてしまう。だからこそ、優先順位を大切にしながら、自らの必要を備えていくことが必要なのだ。そのうえで自らにできない範囲、足らない範囲はゆだねるということが必要になる。それは神かもしれない、誰かかもしれない。ただ、そこで神に信頼して物事を決定し、ゆだねていくことで、その先に起こってきた出来事は失敗と後悔ではなく、神の応答と私たちの感謝となってくるのだ。まだまだ大変なところは多くあるだろうが、その中で得られる神の応えをなお探していっていただきたい。

Q:私は精神的にキャパオーバーを起こしてしまうことがあると感じています。人によってキャパオーバーになる状況は違うと思うのですが、私は緊急性の高い出来事を多くこなすと、そうなってしまうと思います。出来事を終えて、家に帰ると、そんなに考えすぎなくてもよかったなと思うこともあるのですが、どうしていったらよいのでしょうか。

A:それは時間とともに、慣れではないが、克服していくことができる。キャパオーバーも迷走してどうしようもなくなってしまうということまで行くと問題だが、自分で振り返って冷静に振り返ったり、伴侶者の言葉などでハッとすることができたりするならそれでよい。それを繰り返していく中で、あなたは緊急性のある出来事に冷静に対応できるものとなることができるのだ。私も昔は怒りやすい性格だったが、今は少しずつ解消されている。それも、昔はキャパオーバーの時に気に触れられるとすぐ怒っていたのだろうと思う。最近は少なくなってきていることを思うと、やはり、そういうところに柔軟に対応できるようになってきているのだろう。
先ほどの話を聞いてあなたがすぐに反応したように、同じ悩みを持つ同世代の信仰者たちがいる。 ルツとボアズの子どもの名は「オベデ」である。この名をつけたのはルツでも、ナオミでも、ボアズでもない。彼らの村の女性たち、同じコミュニティーの女性たちが付けたのである。私たちのこの教会もコミュニティーである。そのなかで、互いが支えあい、成長しあい、愛し合う関係を作るのが大切なのだ。お互いを知りながら、許しあいながら、この教会が取り組み続けていくことが重要なのである。
神は生きておられるということを「オベデを腕の中に抱くナオミの姿」を見ながら感謝に思ったのだろう。それこそが、コミュニティーにおける重要な役割なのである。そして、同じように歩む中で励まされ、力づけられ、感謝とともに信仰によって歩むことが大切なのである。

Q:申命記31章29節「私の死後、あなたがたがきっと堕落して・・主を怒らせるからである。」モーセが死の間際にそのように語っているのですが、なんとも切ないという思いがします。モーセ自体は未だ元気で、そのようになるとはあまり思えない中で、そういわなければならない事実が何とも言えないです。性善説ではなく、キリスト教では性悪説を唱えていますが、このようなことを死ぬ間際に語らなければならないという事実を悲しく思えるのですが。

A:信仰者は年を取るとそのようになると思う。まぁこんなもんだよというように語るような人は、中途半端に信仰していると私は思う。人間の愚かしさと罪深さは年をとればとるほどわかってくる。私はモーセ自体をとらえるときに、彼は自分をイスラエルから遊離して考えてはいなかったと思う。だからこそ、警鐘を鳴らし続けながらその死を迎えるということをしたのだと考える。それは、その人の生涯を象徴する出来事である。それこそが死なのだ。それはモーセがイスラエルを裁くものとして、自分をその一員から外していないゆえに起こってくる願いと思いなのである。老牧師も最後まではっきり白黒つける人物だった。最後まで良いことは良い、悪いことは悪いという姿勢を崩そうとはされなかった。
以前聖書研究会の中で、ダビデの呪いの言葉について語られたが、それは愛するゆえの対比なのだ。神を愛するからこそ、神に敵対する者に対する強い呪いの言葉が出てくるのである。モーセも神を思うがゆえに最後まで、イスラエルに警鐘を鳴らし続け、その後を神に真実に仕えるようにと祈り、語り続けたのである。あなたももう少し年齢を重ねると分かる部分も出てくるだろう。聖書は年齢とともに感じ方が変わってくる。だからこそ、その時々において聖句を読んだときに感じたことを忘れないようにしておくとよい。そして、何年かして振り返るとき、また違ったとらえ方をする自分に気が付くだろう。それは、年齢とともに様々なことがより分かり、信仰も年齢に合わせて深められていくからである。そのようなことを積み重ねていくことが大切なのである。

Q:ルツ記のメッセージの中で、ナオミがルツをボアズのもとへと向かわせたときに、彼女がこの出来事を演出したと語られていましたが、それはどのようなものなのでしょうか。

A:「演出」という言葉は、ナオミが直接自分で何かをするのではなく、一連の出来事をルツにさせる必要があったからこそ、そのように語ったのだ。「この出来事がどうなるか見ていましょう」とナオミがルツに語ったのは「予想がつくけれども、実際にどうなるかわからなかった」からこその言葉である。ナオミは一度、ある出来事に取り組んで失敗に終わって帰ってきた。だからこそ、この出来事もどのようになるかということを含んでいたのだ。ただ、それでもナオミは自らのために愛をもってついてきたルツのために自分がどうにかしてやらなければと考えた。そして、ルツが語る出来事の中に、神の姿やボアズの信仰を見たのだろう。そして、この一連のことを計画し、ルツに言い聞かせて送り出した。その時のナオミにはルツが言われたことを十分に果たせるかはわからなかった。しかし、彼女は信じて、そこに送り出したのだ。すでに一度失敗を経験している彼女にとってそれは決して簡単な出来事ではなかっただろう。ましてや、それはルツをも巻き込むことになるかもしれないと思うと、怖かっただろう。しかし、それでも彼女はルツの姿に動かずにはいられなかった。そして、彼女に言い聞かせ送り出したのだ。ルツもそのナオミの覚悟を知るからこそ、言いつけ通りにそのすべてのことを行った。彼女が持っていた晴れ着は亡き愛する夫のもとへ嫁いだ時に着ていたものだろうことが考えられる。それを着て夫ではない違う男性のもとへと行くのだ。色々な思いがあっただろう。私はこのことを想像すると涙が出てくる。しかし、彼女は信じてそれを行った。これが彼女の覚悟であり、信仰だったのだ。そのようなナオミとルツの覚悟があったからこそ、この出来事は起こった。彼女たちは最終的にどうなるか、99%大丈夫だったとしても最後までわからなかった。しかし、すでに信頼し神にゆだねた彼女たちは起こってくる出来事を受け止めることができるだけの信仰があった。そしてこの出来事はその信仰を受け取ったボアズによって神のもと形となる。ナオミとルツとボアズ、この三者の信仰があって初めてこの出来事は成就した。だからこそ、これは神を信じる者たちを大いに力づけるものとなる。同じコミュニティーに属する者たちがこれを喜んだ。哀しみに打ちひしがれて、私は何も持っていないと帰ってきたナオミが、ルツによってオベデをその腕に抱いたのだ。滅び失せるかのように思われたエリメレクの家の復活に人々は喜ばずにはいられなかっただろう。
私たちも日々の中にあって哀しい出来事ということは少なからず起こってくる。しかし、それを前にしてただ打ちひしがれて終わっては何にもならない。愛と信仰によって覚悟をもって立ち上がっていくべきである。神はその先で必ず応えてくださる。そして、助けが必要であれば、その所に愛し合う存在を遣わしてくださるのである。なお、またひと月この世の中にあってそれぞれ遣わされたところで働きをなし、その中で得られた感謝を証しあうことで、このコミュニティーもなお力づけられ歩ませていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)