聖書研究
— 救いについて(44) —
野澤 睦雄
「私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。それは雄牛、角と割れたひづめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるでしょう。」(詩篇69:30-31)
3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎
<神への感謝>
こころから湧き出る感謝を神は値高くねづもって神に受け入れられ、それは祭壇にささげられる犠牲の雄牛にまさると評価されることが、冒頭に掲げた詩篇にうたわれています。
エリヤが養って貰ったシドンのツァレファテのやもめは、息子が死んだ時、エリヤにこう言いました。
「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」(列王記Ⅰ 17:18)
息子の死は、彼女に罪を思いださせるできごとであったようですが、その内容は問われていません。エリヤが神に三度「この子のいのちを返してください。」と祈ったとき、「主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡した。そして、エリヤは言った。「ご覧、あなたの息子は生きている。」その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」(列王記Ⅰ 17:22-24)
「イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。」(ルカ 7:12-15)
エリヤの例はイスラエルの隣の国シドンにおけることでしたが、イエスがこれをなさったナインという町は、ナザレの近くにあったようです。どこにおいてもやもめが息子を失うことには決定的に困る痛いが待っていました。 ですからこのやもめたちの感謝はどれほどであったことでしょう。
私たちにはこう言われます。救いの恵みに与ったことに感謝しなさい。
「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」(コロサイ 1:12)
それが最も重要なことです。