同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(46) —

野澤 睦雄


「それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」(ペテロⅡ 1:4-8)

3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎

 <自分の建設>

 「神のご性質にあずかる者となるため」とありますが、私たちは「新生」のいのちによって、「神の子」すなわち「神のご性質」を持つ者とされました。すでに「あずかる者」となっています。「なるため」という表現はその豊かさに差があって、それを豊かに与えられるようにという意味と理解すればよいでしょう。神のご性質はイエス・キリストによって明らかにされています。そしてそれに与ることは「イエスの品性」に似た品性の持ち主になっていくことを意味します。イエスに似たものとなることが、私たちに期待されていることです。
一口に品性と表現しては具体性に欠けます。本誌に掲載し、まとめてホームページに掲載してあるジェファーソンの「イエスの品性」を参考にして下さい。
 イエスは自分のことを「柔和」で「謙遜」であると言われました。イエスが自分の品性について言われたのはこの2つだけです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく(柔和で)、へりくだっている(謙遜です)から、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28-30)
 自分は「柔和」でしょうか。「謙遜」でしょうか。これがイエスに倣うべき最初のテーマです。
「自分を築く」最初テーマに「柔和」を掲げたら、自分はいかに柔和でないかに気づくでしょう。そして、「柔和」にも「量」(程度)があります。いまの自分の柔和のていどよりももっと柔和になれる、柔和はそういう種類のことがらです。「柔和」は人の顔つきや立ち居振る舞い、会話などにもあらわれます。
 「謙遜」にもレベルがあります。それらが増し加わるように自分を築きなさい、それがペテロの勧めです。

(仙台聖泉キリスト教会員)