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質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-160 —
-- 2024年9月 開催 --
山本 咲
列王記Ⅱ 8章
前回から引き続き、今日のところにもエリシャの話が書かれている。この列王記の章の後半は一部ユダの王についても語られているが、大半は北王国イスラエルについて記されている。再びシュネムの女のことが記録として取り上げられている。それは、預言者の書と呼ばれるサムエル記から列王記を通し、もちろんその生涯すべてを包含しているわけではないが、シュネムの女がどのようになっていったかということを述べようとしている。王や預言者など、一人の人物を特別に取り上げる場合、多くが一つのトピックでまとめられていることが多い中、このシュネムの女の記事はいくつかにわたって述べられている。初めはエリシャに対し特別にその部屋を用意し、子が与えられたこと。その子が死にエリシャを通して神がよみがえらせてくださったこと。そして今回先ほど取り上げられていた出来事。それによって彼女は豊かに信仰を築き上げることができた。彼女は飢饉になるから子どもと一緒に逃げなさいと語られ、言われた通りペリシテの地へ逃げていったことが語られている。ペリシテの地も決して生きやすいというわけではなかっただろう。ペリシテの地は彼女にとって誰ともかかわりのない異邦の地だった。そこには何の保証もなく、唯一神への従順ということにのみ、彼女は信頼を置き、その地で言われた通り7年間を過ごしたのである。その後彼女は元の所へ戻ってきた。しかし、畑も、家も人の手に渡ってしまっている現状の中で彼女はどのようにすべきかと悩んだ。そこで、じっとしていてもしょうがないと彼女は王のもとへとやってきた。その時ちょうどゲハジが王に呼ばれてエリシャの行った業を王に語っていたところだった。それゆえに彼女が自らの身に起きた話を通して、土地や、家、これまでの期間その畑でとれたものを王は彼女に渡すようにと命じたのである。それは王の計らいではなく、その背後におられる神の計らいであり、導きと 配剤がなされていたのである。彼女が帰って来てからエリシャが関わっていることは何も書かれていない。唯一は彼女に対してエリシャが行った数々の業が語られるという場における名前のみである。彼が働いたという事実のみだが、もちろんこの背後にも神が動かれていることがわかる。ここに信仰者の素朴な信仰の大切さが書かれている。神に全き信頼を置くときに、神は豊かに応えてくださるのである。しかし、前回7章で取り上げた宦官のように、神の人の言葉を信じることなく、ましてや「神が天の窓を開いたとしてもそんなことはおこるはずがない」とまで語り、神が飢饉からの解放を告げられた事実を受け入れないというように神への信仰を無くしてしまっては、滅びへと向かうことになる。聖書はこのような記事を通して、私たちが心から神を信じ、純粋で、素朴な信仰の大切さを語っているのである。なぜなら、神は生きて働いておられるという事実を示そうとされるからである。
7節からはアラムのことがとりあげられている。聖書記者はアラムのベン・ハダデとハザエルという人物を取り上げ、異なった視点でその時を語っている。
聖書ではダマスコに来ていたエリシャのことを聞きつけ、人を送ったことが取り上げられているが、視点を変えるならばエリシャは何らかの導きが与えられてそこへ行ったと考えていいだろう。何が起こるかわからない中で彼はその所を訪れると、アラムの王ベン・ハダデが送った使いのものと出会うのである。ナアマンのこともあったために、アラムの王はこのところでエリシャに自らの病について、どのようになるのかと尋ねたのである。この一連の出来事はなぜ述べられているのだろうか。それはハザエルがこののちに王の命を奪い、次の王になるという出来事の中心を担うことになるからである。預言者は「病気は治る」と語るが、同時に「彼は死ぬ」ということも語られた。病では死なないが、ハザエルが王となるために殺されるのだ。この二人のやり取りを通して、エリシャはハザエルにつぎの王になる決意を促したのである。そこに神が介入されるということが起こってきている。エリシャはハザエルがイスラエルに行う激しい刑罰を予見し泣いた。そのことはイスラエルに対する神の裁きであり、そのことを通してイスラエルが悔い改め、神に立ち返るということを求めるためであった。そのことを十分に理解しながらも起こってくる悲惨な出来事を思い、エリシャは涙を流すのであった。
シュネムの女に特別に働くという良きことが行われる一方でイスラエルにはエリシャが涙しなければならないことが起こってくるという真理が述べられているのである。これもまた、列王記の記者が描き出しているコントラストなのである。あえてこのように書くことを通して、神を信じその信仰に生きるものと、また反対にそのように生きられないときを示しながら、そこに現れてくる結果の違いというものを表しているのである。
また、後半にはユダ王国についてのことが述べられている。ここではヨラムの時代が訪れた。彼はヨシャパテの子どもだったが、その兄弟すべてを殺して王になったという悪しき王である。なぜなら彼の妻は北王国イスラエルから来た嫁であり、アハブとイゼベルの娘だった。これも以前ヨシャパテがイスラエルを救っていこうという積極的な働きかけを行っていたことを取り上げたが、そのことの延長線上で起こってきた出来事である。結果的には大きく釣り合わないくびきの故に、彼は大きな損害を被らなければならなくなった。彼の死後の出来事であるため、彼本人は知らなかっただろうが、そのようなものを持ち込んでしまったことは事実として残ったのだ。ヨシャパテが良い王であっただけに大変残念なことである。この後の記事を見れば、彼の孫であるアハズヤも北王国のアハブ家の婿になったということが書かれている。完全に悪しき側に持っていかれてしまったという聖書記者の意図が強調されている。歴史にはたらればはないが、この出来事が無かったらとつい考えてしまう出来事である。私たちもそのようなものは畏れ、排除していかなければならない。しかし、それは若い時に行っていく必要がある。すべてのことが理解できてからでは遅いのだ。まだ、未熟なうちに教えられ、それに従い、律していく必要があるのだ。だからこそ、必要なものはシュネムの女の素朴な信仰なのである。自らの知恵や地位を用いて行うことするよりも、様々なところに心をとめながら、神に従い、歩むことこそ必要なのである。
Q:悶着の話をなされていましたが、私は自分の周りで意図せず悶着が起こっているように感じます。それは神がそのことを通して私に何かを教えようとされているのでしょうか。
A:信仰とすぐ結びつけるというよりも、悶着は私たちを広い意味で揺さぶる出来事である。素朴な信仰という話を今日もしたが、なした業に対し素朴という言葉を当てているのであって、悶着それ自体も私たちの心に対しどのような動きを与えているか、またそれをどう処理していくか、覚えていくか、次に用いていくかということを示している。これらは広く私たちの生活を動かしている。私は悶着という言葉をあえて使った。わざわざそのような言葉にしなくてもほかに表し方があったにもかかわらず、この言葉にしたのはそれがもたらす響きが心に残るようにするためである。それによって私たち自身が引き付けられ、身の回りの出来事にも「あっ悶着が起こった」と考えるためである。ただ、何度も話しているが、3日経って忘れる悶着は悶着ではない。しかし、どのように出来事が展開するのかを考えていく必要があり、関わる相手との関係をどのようにするかと悩んだ結果、今の時代は相手を排除することもできる。それが一番の解決法だと言われている。しかし、私たちは一面それができない相手、神とのお約束の中で置かれている隣人の存在や、神のみ心で導かれた先で出会うような人々である。今日取り上げたシュネムの女はペリシテの地に行ったがそこで悶着もあったかもしれない。また、帰ってきたら家や畑がなくなっていたということも一種の悶着であった。彼女は今回の件に関してエリシャに訴えてみてもよかった。しかし、彼女は一連の出来事を通して、神がどのように扱われるかという思いを抱くことができた。それこそ彼女の成長である。だからこそまず、このところで王に嘆願することができたのだ。そしてそこには、神が導かれゲハジがいた。そのときに悶着は悶着ではなく、神との間に起こった出来事となったのである。信仰の独立は知恵と力を与える。この出来事もまた、彼女の信仰の成長によって起こってきた変化なのである。悶着も引きずられていると成長を妨げる。正しく乗り越えて行くことができるようにしていくとよい。神に預けるのだ。しかし、置きっぱなしにしないようにし、怠惰でいてはいけないということはよく考えていく必要がある。悶着それ自体は人間の考え方を硬直させたり、発展を止めてしまったりする。こういうことをやり続けているから、この人が目の上のたん瘤として存在しているからと、他人のせいにして自分を許してしまいやすいのだ。それよりは自分を正しく成長させ、愛すべき人を愛し、共にその愛を通して互いに成長していくということが大切である。
7年という期間があえて書かれている。短い期間ではない。それが彼女にとっての期間だった。私たちはどうしても最終的な神の恵みに視点を置きやすいが、それを手にすることができたのは、7年という期間の中で彼女が神とともに歩み、恵みを受け、成長を与えられて帰ってくることができたからである。彼女がこの7年間を豊かに生きたからこそであるということに目を留めていく必要があるのだ。夢物語を常に考えているようなものと一緒にしてはいけない。「オレをスーパーヒーローにしてくれ」と願うことにならないように注意してほしい。それは結局、求めるだけで終わるものになってしまうからである。
Q:霊的な人と肉的な人との違いとは何なのでしょうか。神の教えから離れてしまったということが肉的なものととらえていくということでよろしいのでしょうか。
A:私は物事を起こしていく動機、その出所の違いだと考える。私たちが神のことを考えているがゆえに神に導かれ、御霊が働かれてなされるものが霊的なものであり、自分の欲から出たものが肉的なものであると考えるのである。特に肉的なものは自分の欲望から出てくるものであり、欲求が前提にあって、行ってしまったり、言ってしまったりするものであると言えるのだ。また、それは聖書の教えとは逆行するものである。だからこそ聖書を開きながら聖言を通して導かれ、やってよいか悪いかということを考えていく必要がある。その中で導かれるもの、語られることを無視するということはもちろん肉的な形であるし、ましてや考えもせずその出来事に当たるということも同様である。私たちは家庭集会の中で子どもたちを育てる際に注意して幼いうちから神と生きること、教会と生きることの大切さとそれを子どもたち自身が選んでいくことの大切さを述べている。救いの経験というものを私たちは実際にするが、それに至る前から子どもたちの中に神と教会との関係を築き上げることを大切にしていかなければならないのだ。だからこそ、親たちには子どもに関心を持ち、その傾向性を見ながら必要な働きかけをしていかなければならないのである。教会に生きるものの幸いを私の長女と次女は語る。それは、親を通して神が働かれていることや、そこに生きる自らがどれだけ幸いかということを感じているからこそである。私は家庭集会の中で家庭を好きな子に育てていくと良いと語っている。それは親を通して働かれる神の姿や、そこで自分が憩っている事実をもって安心して過ごすことができるからである。しかし、そのような関係が上手く築かれていないと、子どもたちはだんだんと将来を考えるようになるときに、学校を出て、卒業して、一人で生活できるようになったらそこから出ていこうと思うようになる。もちろん早い遅いはあるが、あっという間に自らの好きにしようという思いが出てくるのだ。だからこそ、早いうちに親たちは言葉や態度などを通して警戒していく必要がある。親を通して一番に導かれる必要があることは自分の好きなようになんでもしていいわけではないということである。その中で価値観を培っていく。そのような話をすると、子どもたちに自由はないのかと思ってしまうが、そうではない。自由とはなんでも自分のしたいことができるということではない。むしろ、決められているところを守る中で自分の欲求をそれに沿わせながら、危険から自らを守りつつ、選択できる中で必要なことを選び取っていくことである。そのような考え、価値観がないと、自分の思い通りに事を行おうとして、欲のままに自らを満たそうとしてしまうのである。
先日ある姉妹が「小学生になったばかりの娘が、引っ越しで近くに友達がいない中、学校生活を楽しめるかと悩んだが、娘と共に祈ったところ教会の信者さんの職場の同僚の娘さんが同じ年だということで導かれ、小学校生活初日から友だちになった。また仲良くなった友だちを私の教会に誘いたいという思いを娘が持ち、誘うことができた」という証がなされていた。その娘さんはまだ救いにあずかったわけではないが、彼女にとっての純粋で素朴な信仰によって導かれた「私の教会に誘いたい」という思いだったのだ。
その子は相手の環境で一緒に遊ぶではなく、自らが過ごし、憩っている教会に友達を連れてくるということを行った。これこそが大切な事柄なのである。また、姉妹も友だちをどこからか探してくるのではなく、まず導かれることを願い共に祈ったということが重要だったのだ。
「霊的なものは何ですか、肉的なものは何ですか。」というよりも具体的に人格がクリスチャンホームや教会で生きる、また、お互いがともに歩むことができるようにと考えながら、毎日の何気ない生活で何をすべきか、何をすべきではないかと選び取っていくことが必要なのである。また、それには経験を通して肉的なものに対する警戒や霊的なものを積極的に自らのものとしていくために心を配っていくということが必要なのだと考える。そうすると、ものごとは必ず展開していくのである。
神は心を見ると語られているが、私たちの心がどこで動いているかということが重要なのだ。「自分の心を見張れ、いのちの水はここからわく」と語られているように、自らの心の機微を見張っていくことが重要で、その所を主の御心と結び付けられるかがカギとなる。それは自分だけで終わらず、身近にいるものにも豊かに結び付けられ、感化するものとなるからである。
Q:エレミヤ書の後半部分でモアブの滅びについて語られていますが、最終的には「終わりの日にわたしはモアブの繁栄を元どおりにする」と書かれています。この個所を読んでいて思い出すことがありました。私は最初に転職した会社の社長との関係が悪く、もう顔を見たくないとまで思っていました。あまりにも正しい評価をされず、悔しい思いもありました。また、そのように人を大事にしないのに、会社の売り上げはうなぎのぼりで、対外的には良い会社で通っています。しかし中はどろどろとしたものでうずまいています。私はその会社のことを聞くたびにむかむかとした感情が起こり、いつまでも無くなりません。その会社の繁栄を容認できないような自分がいます。どう整理すればよいでしょうか。
A:あなたの中で心を離れない出来事ならば、何かがあると感じられる。私たちが知っているのは、神に逆らっても繁栄はするということである。会社の繁栄のために手段を選ばずに行えば、確かに栄えるのだ。統計的にいくと、良い人の会社はダメになる。儲けるためには手段を選ばないということが必要な時もあるのだ。それをどう考えていくか、それが許せないとなると、違ったところでそれは試みられる可能性がある。それによって御心に反することをしてしまうことを畏れていかなければならない。先ほどの話ではないが、あなたが今ある仕事の中で、その以前の会社の人と関わることが出てきたときに、感情が先に出てきてしまい、他と違う扱いをしてしまうならば、それは悪しきものである。それはあなたの長い霊的な営みを邪魔してしまうものになるのだ。だからこそ、私たちは自らにとって悪しき感情、そのようにして残るものを忘れさせてくださいと祈ることが必要である。被害者としての自分を過ぎ去らせていかなければならない。あなたの目の前に悪しきものが現れ、それにとらわれてしまっていたら、本来必要なものを見逃してしまうかもしれない。また、私たちは信仰の継承を考えているが、もしかすると自らの悪しきそのようなことが後の世代に影響を与えるかもしれない。だからこそ注意が必要である。また、怒りはあなたの近くの人を必然、遠ざけるものになる。権威の中には権利もふくまれている。私たちは神の子どもとして愛される権利を持っていた。しかし、サタン、悪魔はそれを嫌った。神に逆らった彼の意志は神と最も近くにいた自らを押しのけ、人が神と自らの間に入ってきたと考えたのだ。だからこそ、彼はその権利を私たちから奪おうとした。そして実際、エバを欺き、その権利を奪ったのだ。
エレミヤの預言は、神がすべてのことをお決めになるということを示している。彼らが偶像を信じていようが、国自体がそのようなことをしていようが、その中にはエホバの神を信じるものがいるのだ。だからこそ、神の決定は御心としてきちんとそこになされている。
ハマスとの戦争で4万人死んでいる。このようなことが起こると神はなぜこのようなことを容認するのかと思い、そのように語る人がいる。しかし、それは神の地位を変えてしまっていることになる。ハマスという距離にあるならいい。一面遠い出来事だ。しかし、あなたの愛するものを取り去られたときに神の主権のもとにそれに従えるかが重要である。神がなさったのだから、ご所望ならばと受けなければならないのだ。そうではなく、「なぜこのようなことをなさるのですか!」と吠えようものならその地位が変わってしまうものになるのである。神の決定を覆したり、それに対して非を唱えたりする権利が私たちにあるだろうか。あなたが吠えるとそういうことを大切にしている人はあなたのことをそのような人だと判断してしまう。だからこそ、自らの心をきちんと御していく必要がある。自らの感情に対して聖書は、御霊の実の最も重要なものとして最後にそれは「自制である」と教えている。感情を納め、サタンの手に落ちてしまわないようにしたい。
また、話の方向性は少し変わるが、怒りを沈めてあげるのは大切なことである。怒っている人の怒りを鎮めてもらえるとそこに信頼関係を築くことができる。藪蛇になるときもあるが、そのリスクを負うだけの価値があるくらい、それは人心をつかむことができる。賢い人は怒りを納めてもらったことや、先に怒ってくれたということ、そこに込められた愛を理解する。だからこそ感謝するのだ。ただ、同調して一緒に怒っていても負の感情を増長するだけでどうにもならない。「怒りから解放」は利益をもたらしてもらった以上のインパクトを与えるものである。自分がまず怒ってはだめだし、怒っている人のそばから逃げてもだめ。主の福音を広げていくということを動機として、そこに立ってくものも大切である。人が自分以上に怒っているのを見ると不思議と冷静になれる。そのようにして誰かに怒りを沈めてもらうのもいい手かもしれない。
なににしても、心を強く持っていく必要はある。そして、弱みを見せないというか、表にあまり大きく出すのではなく、混乱を納めていくことが大切である。
先日、教会に通う小学生の男の子が「世界一の○○」という自分の名前が入ったTシャツを夏休みプールに着て学校に行った際にそれをいじった子がいた。母親はその瞬間をたまたま見ていて、なぜそのTシャツを着ていったのか、教会以外には着ていかないようにと言っていたこと語ったそうだ。母親はそのTシャツを着ていくことで起こる悶着を予想していたのだ。後日、またその相手が彼をからかうように、「このあいだお前がそういうTシャツを着ていたと言いふらしてやる」と言われたそうだ。それに対してその子は「別にいいよ。言えば」と返したところ相手は何も言わずに逃げて行ったそうだ。母親は「何か言われたらどうするの」と心配したそうだが、彼は「そうしたらThank youっていうから」と母親に返したそうだ。逃げ回ったり、いやなことを遠ざけたりしていてもしょうがない。そういうことが必要なのである。私はなぜそのTシャツを着ていきたかったのかという彼の心の機微を知りたいと思ったところである。直接あなたの話とつながるわけではないが、起こってくる悶着、心の動きというものをどのようにコントロールしていくかは重要である。
Q:最近読んだ本に「いつまであなたは自分の願い事ばかりを祈っているのですか。神にその願いをゆだねるということをしてみなさい」と書かれていて、遜ることの必要性があることを感じています。一方で全部ゆだねますという祈りでよいのかと思うこともあります。どうしたらよいでしょうか。
A:キリストでも「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください」と祈っている。しかし、そこで終わらず「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と言っている。「Let it Be」なすがままなのだ。神に祈ってもよい。ただ、なることはなるし、ならないことはならない。そして、それに文句を言ってはいけない。願い事をするから失望するなら、しなければよいというわけでは決してない。私は長く父と関わる中で、主権というものを学んだ。主権者を乗り越えてはいけないし、何か思うことがあっても従う必要がある。そのような思いで歩んできた部分が大いにある。思い通りにはほとんどならない。ただ、もちろんそれは学ぶために父をその対象にしたのであって、あくまで主権者は神である。そこで考えさせていただいてよかったと思う。神の主権のもとすべては行われる。そして、神は私たちを豊かに愛し、特別なものとしてご自身のもとに置いておられる。だからこそ神が私の想像するものよりももっと豊かに良いものを与えてくださると信じることができる。あなたは特に心配性な部分がある。思い悩むところもあるだろう。しかし、あなたの伴侶者がその部分をきちっと覆ってくれている。同じ世代であり、一緒に育ち、最後まで共にいるのは伴侶者である。だからこそ、互いに愛しあい、感謝しあい、豊かにその中で支えあって生きていただきたい。
今日も豊かに神が学びの時を導いてくださったことを感謝する。なおこれらのことを私たちの信仰生活に結びつけながら活かして、今月も歩んでいきたいと願う。