同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 主権者は神 —

山田 大


「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言 3:6)

 一本杉での働きを担当させていただくことになって、まもなく丸3年になろうとしています。礼拝出席は一番町の本教会と一本杉とが凡そ半々くらいの感じです。
自らが神に求め、御言葉に仕えさせていただく集会も恵まれるものであり、長谷川先生の三浦綾子作品からのメッセージも勿論とても幸いなものでありますが、元々私の霊性を形造っていただいて来た仙台聖泉キリスト教会でのメッセージを慕い求め、飢え乾きを感じることが屡々あります。
山本嘉納先生はよく「説教は生もの」と仰って、従来録音や録画によるものをあまり奨励して来られませんでしたが、最近は少し容認(?)されて、やむを得ず礼拝の場に出席出来ない方々のために、映像が――教会員限定ではありますが――配信されるようになりました。録画も事後に拝見することが出来るようになり、私も恩恵に預かっています。
そのメッセージは非常に鋭く「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)と、御言葉にあるように、自分で正しいと信じていることも微妙にズレてしまっている危険があることを屡々示されています。

  最近、心に残っているメッセージに「主権者を間違えてはならない」という言葉があります。これも慎重に捉えさせていただかなくてはならないと思いますが、私達は、目の前の目に見える価値観を正当化してしまい、知らず知らずのうちに神の御旨と自らの願いを混同しやすい、ということが挙げられると思います。
 強い願い、祈りの課題を抱えている時、絶えず一心にそのことを自分の言葉で祈ります。そしてそれは神の御心にかなうものに違いないと確信しています。しかし、私たちが自らの願いを具体的な言葉にすればするほど、神の御業を限定し、主権を神から奪い自らのものにしてしまっていることに気づかされました。
「主権者を間違えてはならない。」

 キリストのゲッセマネの祈りは「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)というものでした。
そしてヘブル5章7節には「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。キリストの願いは聞き入れられたのです。とすれば、キリストの真の祈りは「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」ではなく、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」だったことがわかります。私はこの事実と、自らの願いを照らし合わせた時に涙が止まらなくなってしまいました。果たして私はこの自分の願いを捨てて「あなたのみこころのように」と祈れるだろうか、私は心に非常な動揺を感じ、大きな恐怖の故に私の祈りは閉ざされてしまったかのようでした。
 しかしすぐに神は「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)と語りかけてくださり、全知全能の神に、そして私たちの思いを超えて最善を成してくださる神に委ねる信仰を与えてくださいました。

 キリストのゲッセマネの祈りは、全人類の罪を背負う十字架への強い使命と、父なる神との深い信頼関係を思わせられます。私達の祈りも神が私たちの教会に置いてくださった「家庭建設者となり信仰の継承者となる」という力強い不変のメッセージへの使命感と私たちの神への揺るがない信頼を持たせて頂いて、「私の願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」と祈らせていただきたいと思います。
 

(仙台聖泉キリスト教会会員)