同労者

キリスト教—信徒の志す—

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 -「キリスト者の一致(4) ~御霊の一致を保つために~」 -

石井 和幸

  「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(エペソ4:2~3)  

  まず著者は、私たちの内的な在り方を示す「謙遜」と「柔和」について述べています。
「謙遜」とは、「自分自身、自分がもつ力・能力について控えめに見る」ことであり、マタイ5章などに記されている至福の教えからすると「心の貧しさ」にあたります。この世において認められること、また自分を信じること、自己顕示などとは正反対のものであると著者は説明しています。「柔和」とは、「心のうちが穏やか」「優しい」ということ、必要なら神に全てを委ね、その結果自分が望まない状況になったとしても、そのことを受け入れる備えがある状態であると著者は述べています。主ご自身が柔和な方であり(マタイ11:28~29)パウロも常に謙遜と柔和をもって、諸教会へ働きかけを行っていた様子がパウロ書簡から読むことができ、またペテロも「みな互いに謙遜を身に着けなさい」(ペテロⅠ5:5)と厳しく勧告しています。パウロはこのエペソ書にて「謙遜と柔和の限りを尽くし」と記しており、教会に来ているときだけではなく、いつでも、どんな人に対しても、どんな場所においても謙遜と柔和を身に着につけなさい…と語ります。

2 『寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い』
  謙遜と柔和を身に着けたなら、隣人との関わりにおいて実際に「寛容」でなければならない…とさらにみことばの解き明かしが続きます。著者ロイドジョンズは、「寛容」とは端的に「長く苦しみ、長い期間自制し、感情に流されてしまわないこと」と釈義しています。寛容は神ご自身のご性質であり、神が辛抱強くなかったならキリスト教は存在しなかっただろう…寛容こそが私たち人間に対する神の態度であると著者は語り、たとえ隣人のことばや行いが自分をいらいらさせるようなものであったとしても、その人を懲らしめようとしたり、悪く言ったり、恥をかかせるようなことをせず忍耐することを強く勧めています。さらに、もしある人が自分を、悪い態度や行動に誘うことがあったとしても、その誘惑から耐え忍ぶようにと勧告しています。「愛をもって互いに忍び合い」…隣人として愛することを示されているのならばその人を軽蔑したり、短気を起こしたりするのではなくまず大いに関心を持ち、理解をすることに努め、寛容を示して耐え忍ぶこと。これこそが「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を保つ」ことに心を砕く者の態度であると著者は語っています。
  私は送迎バスの運転士の仕事をしていますが、8月末に勤務先の所内で物損事故を起こしてしまいました。事故の要因はいくつかありますが、私自身の(園児が帰った所内では絶対に事故を起こすわけがない)という過信と慢心が一番の要因でありました。自分の弱さ、足りなさを強く示されるとすぐに、その職場において乗り越えるべき別の課題が生じ、また本業においても引き続き大きな課題がありました。神から常に「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあう」ことの必要性を示されつつも、妻と一致を保つことが出来ずに慌ただしい毎日を過ごしたように感じております。神の恵みと憐れみにより10月を乗り越えることが出来たことを感謝するのと同時に、今こうしてこの同労者の記事を執筆するため、山本和子先生が残してくださったこの本を読み返し、本文にもあるように私自身に対しいかに先生方が「愛をもって耐え忍んで」祈り、接してくださっていたか、今更のごとく示されています。「御霊の一致」が、まず家庭において保たれるように、そしてキリストの体なる教会の器官としてなお謙遜に歩んでいきたく思っております。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ 5:22-23)

(仙台聖泉キリスト教会 会員)