論説
— 陰府にくだり ー
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、
陰府にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の 赦ゆるし、身体のよみがえり、 永遠の命いのちを信ず。アーメン」
(使徒信条)
使徒信条にある「主は・・・陰府にくだり」という部分は、いれるべきだ、いやいれなくてよい、と議論になるようです。
裏付けになる聖書の記事が乏しいのですが、「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」(詩篇 16:10)
という詩篇の記述は、復活の主について述べられていると信じられていますから、復活される前に主は陰府におられたことを示していると理解されます。また、「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」(ペテロⅠ 3:18-19)という記事があり、主は死んだ人々の霊と共にいる時を持たれたとされます。それで主は復活の前、陰府におられたことは真実でしょう。
さてそれでは私たちの信仰告白とする重要性があるでしょうか。
「主は真の神であり、真の人間である。」と信じることは重要です。皆さんにかつて「私の信じる主は半分神であり、半分ひとである、というイメージでしたが、今は完全な真の神であり、完全な真のひとであると信じています」、とお伝えしています。
イエスは、母の胎にいた日数が正しく人間の通りであった事が記され、真の人間であったことが示されています。
「彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。」(ルカ 2:6-7)
赤子として生まれ、成長の過程も、成人して後死いたるまですべて完全に人であられました。人でないものは何処にもありません。「陰府にくだり」はすべての人間が死んだ後に行くところにいかれたことを述べ、これも真の人間であることを示しています。
イエスの公生涯は聖霊を受けて始まりました。神としての力と知恵、状況や人の内側まで知っておられることなどすべて聖霊の力でした。あなたがたも聖霊を受けるならわたしと同じ事ができると弟子たちに言われました。それで「陰府にくだり」を信仰告白に加えることはよいと理解できます。