同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(52) —

野澤 睦雄


「あなたがたは、あらゆる努力をして、・・・、忍耐には敬虔を、・・・加えなさい」(ペテロⅡ 1:4-8)

3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎

 <自分の建設>

 ペテロは忍耐に「敬虔」を加えなさいとすすめています。
 「敬虔」の本質は「神を畏れる」ことです。
 聖書には、あなたは神を恐れた、と神ご自身から言われた人物がいます。それはアブラハムです。
「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
・・・
ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」」(創世記 22:1-13)
「敬虔」ということばがこのアブラハムの行動と重なって見えるでしょうか。聖書が告げる敬虔はなんと緊張をよぶことでしょう。

 こんな事も書かれています。
「あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。」(レビ記19:14)
ここでは目の見えないひとの前につまづくものを置くことは、神を恐れない行為である、とされています。
「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』」
(マタイ 25:45)も神を恐れること・・敬虔・・についての共通する課題です。
「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」(マタイ 5:44-45)
ここにも敬虔の姿が示されています。

(仙台聖泉キリスト教会員)