巻頭言
— 神は生きておられる —
山田 行
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがしらがになっても、わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って救いだそう。」(イザヤ書 46:3-4)
50歳になった時
ある教会の牧師夫人に「50代はとても楽しいわよ」と言われました。何か楽しい事が起こるのか、少しワクワクした思いになって歩み始めたことを思い出します。
4月で60歳になりますので10年間を静かに振り返ってみました。忘れてしまっている事も沢山あると思いますが、確かに私の生涯にとって大切な節目となった10年間であり、それらの出来事が思い起こされました。
一つ目は、両親が天に召された事です。
いつまでも一緒にいられるような気がしていましたが、天に帰る日は静かに来ました。両親は最後の最後まで生涯をかけて神が生きておられることを私たちに教え続けてくれました。特に父は天に召された日、満足気な表情で私たちに手を振ってくれて別れることが出来たのは本当に主の恵みでした。
二つ目は、一本杉の地に引っ越しをして教会が始められたことです。
何年前からでしょうか、新たな教会を生み出すために仙台教会の皆さんと祈り願って取り組んで来ました。実を言えば私は、消極的な思いになっていました。現状でも精一杯皆で戦っているのだからこれ以上頑張れるのかと思ったからです。しかし、ある日突然息子から「新しい教会を建てるためにこの家を献げてはどうだろうか」と願われました。その時不思議なように私の頑なな心に光が差して平安が与えられました。神は、御心を成す時は成す方で、私がジタバタしても恐れても、私の考えなど足元にも及ばない深い御思いで、時を備え事を成し、ご自身が生きて働いておられることを見せて下さいました。
三つ目は、娘に結婚が与えられたことです。
いつの日かクリスチャンの男性と家庭を築いて欲しいと願っていました。それは私たちのそばから離れて自立して行くことだと思っていましたので、娘が確かに信仰を継承してくれるようにと祈っておりました。教会の先生方はじめ皆さんの祈りに神は答えて下さって、ある日そのクリスチャンの男性が現れたのです。そして驚くべきことに彼は、住んでいた東京から仙台に引っ越し、私たちの教会に転会までしてくれました。初めて我が家に結婚の挨拶に来てくれた時から今に至るまで、彼は私たちの大切な家族の一員となって、娘は勿論、私達家族をも大切にして歩んでくれています。そして教会のためにも多くの労を惜しまずにしてくれています。
この10年を振り返ると、よく祈った10年だったと思います。祈りは神との語らいであり、祈りが聞かれた時も、聞かれないように思った時も、常に神に尋ね祈り求めました。祈りは、いつも私のそばに神がいてくださることを教えてくれました。この10年という長いようであっという間だった年月に、私は神の前に沢山泣きながら祈りました。苦しかった時も感謝な時もすぐに涙が出てきてしまいました。感謝な10年でした。こんなに祈った日々は今までありませんでした。神のそばで生きる楽しい日々でした。
つくづく思うことは祈りによって準備をしておくことの大切さです。神の御心に生きることができるようにと日々祈ることです。現実は厳しかったり、なぜ?と思うこともありますが、私の思いではない神の世界の中で生きることを楽しむことができるように、神に委ねて祈り続けたいと思います。
また新たな60代が始まります。
早速この年は、息子の結婚、娘の双子出産、と大きなことが予定されています。
冒頭の御言葉のように胎内にいる時から愛されて、白髪になっても私を背負って下さる神に喜ばれるように、
そして与えられた召しに従って楽しんで歩みたいと願っております。