同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(48) —

野澤 睦雄


「あなたがたは、あらゆる努力をして、・・・、徳には知識を、・・・加えなさい」(ペテロⅡ 1:4-8)

3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎

 <自分の建設>

 ペテロは「あらゆる努力をして」「信仰に徳を、徳には知識を加えなさい。」と勧めています。
徳に加える知識について考察して見ましょう。
 ペテロが呼びかけた当時の人々は、今の私たちのように整えられた聖書を持っていませんでした。ですから彼らは正しい知識を持つことは大変なことであったでしょうが、今の私たちには聖書があります。私たちは知識を聖書に求めれば良いのです。さらに聖書を解説してくれる先生方がいます。
 知識というだけでは漠然としていますから、項目に分けてみましょう。

・神についての知識
・神の御業である世に関する知識
・神のみ心に関する知識
・この世の支配者である悪魔に関する知識
・神が自分を通してなさることに関する知識

 聖書を読み、教会の集会に出席し、説教を聞き、教友たちと交わりをもち、信仰書などを読み、個人的なデボーションの時を持つ、 
伝道に関する教会の働きに加わることなどによって、真摯な信仰生活をするなら、神についての知識の片鱗に触れることができるでしょう。これらはそう心懸けさえすればできることであって大切であることは言うまでもありません。
 神についての知識を得る上でもっとも大切なことは「神と共にあゆむ」ことです。
 私たちの生活のなかで、夫婦になってともに歩むこと以上に深く相手を知ることができる関係は他にないでしょう。夫婦はともにあゆみますから、口に言わない多くのことがらを互いに察知します。もちろん人間ですから限界がありますが。
 聖書のなかで直接「神とともに歩んだ」と書かれているのは、エノクとノアです。
創世記5:22、6:9。直接書かれていなくても神と共に歩んだ多くの人々がいました。
 神について、イエス・キリストについて、聖霊についての知識は「神と共に歩む」ことなしには、ほんの表面的な知識しか得られません。
 実際の生活のなかでは、神の優しさ、寛容さに触れさせていただくことが多いことでしょう。神がお怒りになることに触れることはほとんどなく、気づいたら神に放置されていた、ということがあるかも知れません。それは恐ろしいことです。
「エフライムは偶像に、くみしている。そのなすにまかせよ。」(ホセア 4:17)

(仙台聖泉キリスト教会員)