聖書研究
— 救いについて(53) —
野澤 睦雄
「あなたがたは、あらゆる努力をして、・・・、敬虔には兄弟愛を、・・・加えなさい」(ペテロⅡ 1:4-8)
3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎
<自分の建設>
神を畏れる「敬虔」を身につけたなら、どこに向かうのかが指示されています。
それは「兄弟を愛しなさい。」です。イエスは最後の晩餐の席で、こう言われました。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ 13:34)
「隣人を自分自身ように愛しなさい。」といいうことは旧約の教えでもありました。それなのになぜイエスは「新しい」戒めだと強調されたのでしょうか。
ジェファーソンは「新約の教会の思想」として、まず「兄弟を愛する」ことをとりあげています。それこそが「教会」なのです。
イエスが説教されたとき、新しく教会の時代がやってこようとしていました。その教会の時代は聖霊が弟子たちの上に降ると実際にやってきましたが、かれらはすぐに自分たちを兄弟姉妹と呼びあうようになりました。そしてイエスの命令した「あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ということばを実行しました。
イエスは「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:35)と言われて、ジェファーソンの主張している「兄弟愛」こそが「教会のしるし」である根拠を提供しておられます。
もし私たちの間に「兄弟愛」がなかったら、教会の看板を下ろし、「○○協会」とでもよべばいいのです。
イエスの言われる「兄弟愛」は、
「わたしがあなた方を愛したように」
であり、
「人がその友のためにいのちを捨てる」(ヨハネ 15:13)愛であり、
「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ 15:14)
と言われた愛をもつことがイエスの友である条件です。私には「高すぎる基準です。」といってひきさがりませんように。
今の実際の生活にあわせた変化は必要でしょうが、できたばかりの教会は、互いに兄弟である一つの家に属する家族であって、財布もひとつになっていました。