聖書研究
— 救いについて(57) —
野澤 睦雄
「わたしは近くにいれば、神なのか。──主の御告げ──遠くにいれば、神ではないのか。
人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。──主の御告げ──天にも地にも、わたしは満ちているではないか。──主の御告げ──」(エレミヤ書 23:23-24)
4.救ってくださる神
「神の遍在」について考えましょう。
「遍在の神」とか、「神は遍在しておられる」とか言われ、神学の世界では普通にそう使われていますが、「遍在」ということばは日本語聖書の翻訳にはほとんど使われていません。
しかし「三位一体」ということばが聖書に無くても当然のこととして使われているのと同じです。神は「遍在の神」です。
「遍在」とはあまねくどこにでもおられること、地の果て、宇宙の果てまで、神はどこにでもおられることを意味します。
それが聖書ではどのように書かれているのでしょうか。
冒頭に掲げたみことばでは、神は天にも地にも満ちている・・つまりどこにでもおられる、ということです。
「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。}(詩篇 139:7-10)
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
・・ 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。」(使徒 17:24-28)
私たち人間は、神の中に生き存在していると書かれています。
「神の臨在」
神はどこにでもおられますが、特定の場所にご自身を現されます。それを「神の臨在」といいます。神はみこころのままにどこにでもその臨在を示すことがおできになります。
「こうして、モーセはその仕事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」(出エジプト記 40:34-35)