同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(51) —

野澤 睦雄


「あなたがたは、あらゆる努力をして、・・・、自制には忍耐を、・・・加えなさい」(ペテロⅡ 1:4-8)

3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎

 <自分の建設>

 ペテロは自制に「忍耐」を加えなさいとすすめています。
 パウロは「苦難が忍耐を生み出し・・」(ローマ5:8)と言っていて、ヤコブは苦難と忍耐についてヨブを引用しています。
「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。」(ヤコブ5:11)
 イエスは自分を「柔和」で「謙遜」だと言いましたが、「忍耐深い」とは言いませんでした。しかしイエスの一生は忍耐の塊(かたまり)のようでした。本誌「同労者」のホームページから、ジェファーソンの「イエスの品性」が読めるようになっていますから、第二十一章イエスの忍耐読んでみられることをお勧めします。印刷版をお持ちならそれで。
イエスの弟子たちのお扱いはなんと忍耐深かったことでしょう。ガリラヤ湖の嵐の船で眠っておられるイエスに弟子たちは、「私たちが死んでもなんともお思いにならないのですか!」とイエスに苦情をいいました。イエスを接待していたマルタは、妹のマリアがイエスの話に聞き入っていて、接待の手伝いをしなかったので、なんとイエスに苦情を言ったのでした。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」このような事例についてのイエスの対応はなんと柔和で忍耐深かったことでしょう。最後の晩餐の時でさえ弟子たちは誰が一番偉いかと言い争いをしていました。それでイエスは弟子たちの足を洗って模範を示さなければなりませんでした。
  話を戻して、ペテロは忍耐を加えよといい、パウロは苦難が忍耐を生み出すと言いますから、私たちは苦難を求めるでしょうか。それは「主よ。どうぞ勘弁して下さい。私は苦難を望みません。」となるでしょう。そして、きっとヤベツの祈りを自分の祈りとすることでしょう。
「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」(歴代誌Ⅰ 4:10)
しかし神は、私たちが忍耐を必要とする事をご存じで、耐えがたいほどでない小さな苦難にあわせ、私たちに忍耐をおさずけになります。

(仙台聖泉キリスト教会員)