同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— イエス・キリストは自分にとってどんな方になられたか —

「さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。・・ だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」(ルカ 7:36-48)

 クリスマスの時がやってきました。私たちは皆それぞれ、イエスのこの世においでになったことに思いを馳せることでしょう。
 私たちは、イエスが世の罪を贖うために、つまり私たちの罪の身代わりとなって死に、私たちの罪を赦すためにおいでになったことをよく知っています。
冒頭には引用した聖書の記事の一部分しか記載してありませんので、聖書を開いて全文をお読み頂きたいと思います。
ここに興味深い一事が記されています。それは<多く赦されることと少しだけ赦されるということがある>ということです。
私たちは、神が赦されるのは、0か1か、白か黒かといった、全部か何もないかの世界だと思っていないでしょうか?
ところがここには、赦されるということに分量があって、多く赦されると神-イエスを多く愛し、少し赦されると神-イエスを少しだけ愛するということが書かれているのです。
 自分が神-イエス・キリストをどれだけ愛しているか、自分の心をよく観察すれば神からどれだけ赦されているのか分かる尺度がここにあるということになります。
 実際は、赦しに多少があるのではなくて、神は全部赦して下さっているのですが、私たち自身がそれに気づいていないので、神を多く愛していないのであろうと推察されます。イエスの語られた説教に、同じ赦す--借金を免除してやる--事例があります。(マタイ18:23-35)一万タラントの借りを免除して貰った人物が、仲間に貸した百デナリを赦せなかったという内容です。イエスがここで語られているのは、あなたがたは皆、自分ではとうてい払うことのできない負債を免除して貰ったのだということです。悲しいことにそれを悟っていない、実感していないことがイエスを少ししか愛していない、隣人を少ししか愛していない原因となっていることでしょう。
  クリスマスです。イエスを思いめぐらし、多く彼を愛するものとなりましょう。
それがキリストの心を自分の心として、私たちが隣人を愛することができる人になれる道です。

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