同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞の理由を問う(5) —

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト記 20:6)
「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。」(申命記 11:18-19)

 日本のキリスト教界は、信者が人口の1%未満という状態が長く続き、沈滞状態だと言わざるを得ないわけです。それをもたらしている問題点のひとつとして信者の子どもの救われる率の低さを指摘しました。「自分の子どもを救い、自分の信仰を子どもに継承する」ことは、他人はさておき、信者個人のこととしてもその重要さは、次の事を考えれば歴然です。キリスト者としていただいた人は、やがて天国に迎えていただけるでしょう。しかし天国に自分の子どもはいない、ということになります。この世で仕事をし、多少なりとも財産が出来るかも知れません。蓄えた財産は誰のものになるでしょうか。子どもが救われていなければ、彼は神に敵対する人であって、営々と働いて積み上げた財産は、その神に敵対する子のものとなります。これほど虚しいことがあるでしょうか。
 先に、教会の中に神の恵みが実現するためになされなければならない重要なことが3つあり、それは説教と祈りとその実現のための適切な活動・行為ですと述べ、この子どもを救うということに対して説教がなされているか問いかけました。
次の課題は「祈り」です。
 建築関係の仕事をしているキリスト者のある方が・・教会の仕事をさせてもらっている関係であちこちの教会に出入りしているそうでしたが・・筆者の所属している教会の祈祷会に出席してこういっていました。「仙台でこれだけの人数の祈祷会を持っている教会はないでしょう」と。その集会は50人に少し欠けるくらいの出席数でした。100人を超える礼拝を持っている教会は多数あるのに、祈祷会はほんの数人で持っている、いや祈祷会があるだけマシで、祈祷会を維持できず止めてしまった教会も少なくないようです。日本の中で仙台市だけがそのような状態なのでしょうか?きっと日本中の状態をよく表しているサンプルとなっているに違いありません。
 祈祷会には出席しないが、毎日時間をとって祈りに励んでいるという人を期待できるでしょうか。それはノーです。そのような人がいたとしてもごく希です。祈祷会が祈りの現状を示しているのです。
<神は祈りによって事を行われる>という決定的な真理が見失われています。なんとしても祈りを復興させなければなりません。読者の皆さんが祈りの口火となりますように。そしてそれによって周囲におられる兄姉に祈りの火が燃え移りますようにと願ってやみません。

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