同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞の理由を問う(8) —

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト記 20:6)

「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。」(申命記 11:18-19)

 神が「私の父の神」であられるということは、世とキリスト教との関係に似た状況が、親子の間に発生することがあると察しがつきます。
 もしキリスト者であると世に知られている人が何か罪を犯したとします。すると周囲のものはこう言います。「クリスチャンがこんなことをしたんだって。」と。その人は、一人であるにも拘わらず、世はその人によって、キリスト教を、そしてその背後のイエス・キリストを見、非難するのです。
 先に子どもは親の実態をよく察知するものであることを述べましたが、キリスト者の例と同様に、子どもたちは親がどのようであるかによって、キリスト教とイエス・キリストを判断します。うちの親は例外の人などと考えるはずがありません。また、キリストを信じている多くのひとびとがいることは分かっていても、親がその代表例となり、親の如何が、自分も信じていこうとするか否かの重要な要因の一つになります。
 甘い親であればいいのか、辛い親であればいいのか、ひとくちに決めることができるはずはありません。けれども、子どもが育っていく過程で、ここぞという時があります。
 筆者の教会の牧師が・・お父さんも牧師ですが・・欲しい楽器があったとき、父に欲しいと言ったら、自分の思いに遙かにまさる高価なものを買ってくれたと述懐しておられました。
 筆者は逆に・・足りない生活を不平をいわずに共にしてくれた子供たちでしたが・・あるとき、当時流行であったミニ・コンポが欲しいといったことがありましたが、ラジカセで我慢させてしまいました。彼女がキリストに帰るまでに遠回りをさせてしまった、遠因であるかもしれないと嘆きを覚えます。
 なんでも与えれば良いのではありません。
そしてかならずしもこういうことだけでもありません。人それぞれによって千差万別です。実践はなんと難しく、親は自分の子どもに緊張して関心を払っていなければならないことでしょう。
 このようなことが、子どもたちが信仰を選ぶか否かに影響を与えるものであることを知っている必要があります。

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