同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— すべての善きものの源である十字架 —

「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、・・です。」
(Iコリント 15:3-4)

 今年は4月に入るとすぐ受難週が始まり、8日の日曜日がイースターに当たります。イエスの受難と復活は、人の罪を購うためであったことはいうまでもありません。そのキリスト教の世界で問題とされる、罪であるとか罪でないとかということは人間の間に存在する基準ではなく、ただ神がどう見られるかにかかっています。生まれつきの人間は「罪の存在」であり、イエスの十字架と復活こそが、表題のようにすべての善きものの源です。救われるということは、単にキリストの十字架は私の罪のためであったと「自分が思っている」「自分がそう信じている」だけでは足らないのです。神が実際にそのキリストの贖いに当てはめてくださる、罪を赦し、新生のいのちを与えることを実行してくださらないうちは、まだ闇のうちを歩んでいるのです。
 キリストを信じていない人々の間で育った方は、おそらく、神がおられた、イエスは私の救い主であったと思える時と救われた時が一致していることでしょう。そのためキリストを救い主と信じていると言うことは救われているということだと考えることでしょう。しかし、信じている人々の間に育った者にとっては必ずしもそうではありません。筆者自らが経験してきたことは、恐らく同じように信者の世界の育った人の多くの経験することであろうと思われます。
 筆者は物心ついたときから決して変わることなく、神がおられること、聖書は神の書であって真実が書かれていること、イエスが救い主であることを信じて育ち、成人となりました。洗礼も受け、教会員となり、教会の集会にも行きました。だが救われていませんでした。
 現在所属している教会の礼拝に出席していたとき、自分は神の前に汚れた者であることが分かりました。あなたがたは神に近づく道か、神から遠ざかる道かいずれかを歩んでいる、決して中間の道、どっちつかずの道はないのだという礼拝説教がなされ、神から遠ざかっている自分を知り、神に近づく道を行きたいと思いました。牧師を訪ね、私は汚れたものであって集会に出るに相応しい者ではありませんけれども、集会にでさせていたでき、先生の説教された神に近づく道を行きたいのですと申し上げました。遜って神に近づきたいと願ったことを神がよしとしてくださり救いに与らせて下さいました。
 キリストの十字架と復活以外には善きものはないことを深く悟らされましたが、これはすべての人に当てはまることです。

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