同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞の理由を問う(11) —

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト記 20:6)

「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。」(申命記 11:18-19)

 子どもを教会の集会にいさせる、ということを論じましたが、子どもの方が、「これこれをさせてくれれば教会にいてやるよ」というあべこべの事態も起きることがあります。
 そんな子どもの要求を飲んで、その子どもに<教会にいていただいたりしたら>、その子は教会の中の何者になるでしょう?
長く教会にいたとしても、神がお喜びになるはずがないのです。「神はあなどられるお方ではありません。」
 子どもたちをただ集会にいさせるだけでなく、彼らが育っていく過程のどこかで、認罪し、悔い改め、罪の赦しと新生の命に与る、<救いの経験>に与らせなければなりません。
 不信者の世界に育ち、成人してからキリストを信じて教会に加わった方々は、教会の中で育つ子たちについて次のようなことを知っていなければなりません。
 キリスト者の子どもは、自分の罪を<神に対する罪>として理解することができます。不信者の家庭に育った方々はその認識が薄いことはいなめません。自分の罪というものの認識が魂の奥底に届くか否かは、その人のキリストの前に立つ姿に大きく影響を与えます。欧米のキリスト教社会の人々の持っている土壌と比較して、日本のキリスト教社会は<風土として>底の浅さを感じさせます。そこにてこ入れするためには、この魂の奥底に届く神への罪認識、そこからわき出てくる十字架の贖いに対する価値観、そのようなものが浸透しなければならないのです。
 不信者の世界に育った人のことは、「ああ、神がおられた」と思っただけでも、神がそれを彼の信仰と見なして救って下さることが珍しくありません。その人は救われた後で「私は神に対する罪人であった」と理解します。ところが、キリスト者の家庭に育った子どもたちは、神がおられることは当然で、自分の罪を知っており、自分の罪を幾度も<密かに>悔い改めていることは珍しいことではありません。神のお取り扱いもまた的確で、「神は多く与えた人には多くを要求される」のであって、その程度のことで救いをお与えにならないことが多いのです。バプテスマのヨハネの前でイスラエルの人々が「罪を言い表して」バプテスマを受けたように、彼らは牧師のところにいき、自分の罪を言い表して悔い改め、キリストの十字架の贖いを信じることによって救いに与ります。けれどもこの高いハードルこそが、その人の信仰の姿を決定づけるのです。不信者の家庭の育った方々は、自分の家庭に育った子供たちが自分が救われた時と同じ程度の神認識とキリストを受け入れることで彼らが救われるだろうと思われませんように。
 信者の子どもたちが、その高いハードルを越えることによって、彼のうちにキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力」の基礎ができるのです。
 「理解する力」ですから、せっせと信仰書を読んで、知識を得ればその力がつくだろうと思ってしまうことは、いのちの木の実を食べず、知識の木の実を食べたアダムの子孫である私たちにつきまとっている落とし穴です。
イエスはこう言われました。
「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」(ヨハネ 7:17)
「わかる」つまり理解力は、知識をつめこむことによって得られるのではなく、「従う」ことによって得られるのです。イエスに敵対した学者、パリサイ人たちは聖書をそらんじるほどよく知っていました。しかし、彼らはイエスが神のみこころを語っていることを理解できなかったのです。
 私たちも彼らの轍を踏まないように警戒し、神を畏れて生活しましょう。頭に詰め込む知識は、どんな神学、信仰良書のすすめであっても、それは「人の言い伝え」なのですから、私たちが当面している状況を正しく理解したうえでそれらを当てはめないと的はずれになります。まさにパリサイ人たちの失敗がそこにあります。
 教会に育っている子どもたちを、「救いの経験」に導くこと、これが教会の土壌<風土>を改善する、不可欠の要素です。

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