同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞の理由を問う(12) —

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト記 20:6)

「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。」(申命記 11:18-19)

 子どもを救いに導くことに成功したなら、本人が自分で信仰の道を歩んでいきます。牧師がその指導者、周囲の人々は同じ兄弟として一緒に歩むものとなります。
 信者の家庭に育った人にも、不信者の家庭に育った人にも、通過しなければならない全く同じ課題がまずあります。
 それは<人への謝罪>です。
 このところ、筆者の教会のキリスト者の家庭に育った青年たちが次々と救われました。
彼らが救いの証に立って述べたことは、「実は、コンビニで万引きしたことがありまして、謝罪にいってきました。」です。長く信仰生活を続けている兄弟たちはもれなく、救われたとき<人への謝罪>をしたことを語っています。
 私たちが罪を犯すということは、誰か「人に」対してであって、直接「神に」ではありません。しかし、その人に対する罪が「神に対する罪」なのです。神に対する罪なのですからそれを放置したまま神の前に立ち続けることはできないのです。
 イエスの教えは更に積極的です。
「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ 5:23-24)
この<人への謝罪>をして、罪を精算しないことが、日本の教会で新しく救われて教会に加わった信者たちが、その信仰の進歩に関してはかばかしくなく、数年で教会からいなくなる主要な原因のひとつではあるまいか、と推察されます。信者の家庭に育った人は、先に牧師のところに行かず、<密かに>神に自分の罪を告白していることがあることは珍しいことではないと述べました。牧師のところに行くよりも神に直接語る方が簡単なのです。同様に、牧師に祈ってもらうことよりも、罪を犯した相手の人に謝罪に行くことはもっと困難です。
 救われて教会に加わった兄弟姉妹たち、自分の罪をよく見つめ、謝罪すべき人に謝罪し、その上で神の恵みを求める信仰の道を行かれますように。

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