同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞の理由を問う(6) —

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト記 20:6)
「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。」(申命記 11:18-19)

 神に自分の子どもを救っていただくために祈る、それは祈祷会に出席するとともに、短い時間でもよいから、努めて、「祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」というイエスの教えに従って祈るキリスト者を神が慈しみ給わないでしょうか?きっと神の真実をそこに見ることになるでしょう。
 教会の中に神の恵みが実現するためになされなければならない重要なこととしての3番目に掲げました神の恵みの実現のための「適切な活動・行為」について考えましょう。それははじめに掲げたみことばの、「あなたがたの子どもたちに教えなさい。」という部分に対応します。
 キリスト者の家庭に育った子どもが救いの恵みに与ったとき、その人の持つ神観は「私の父の神」となるでしょう。これは信仰をもっていない人々の家庭で育ち、成人してからキリストを信じた人々の持てない神観であろうと思います。この「私の父の神」という神観に、キリスト者の家庭の子どもたちの救いに関する重要な課題が見えてきます。
 子どもは親をするどく観察し、親がどのような心根をもっているか、どのような生き方をしているかを察知します。信仰、信仰というけれど、なんだやっぱりお金の方が大切なんだ、この世と妥協して生きているんだ、人を信じない、けちだ、人に厳しく自分に甘い、・・等々。親がもっているよいものも同様に把握します。私たちが神に真実に生きるなら、子どもたちはそれを察知しますし、愛情豊かに生きるならそのように評価します。子どもたちが信仰を持つとき、そのように、足りない面も良い面も持っている父を愛してともに歩まれた神を見出すのです。
 もうひとつ記憶すべき事は、子どもたちは親に似ていることです。誰でも知っていることですが、子どもこそ自分の姿を映し出す鏡です。ときどき「子どものうちに自分のいやな面を見て、いやになる」という声を聞きます。それは、子どもの悪を追求し、ただすことに対する力をそぎます。
 子どもたちが「私の父の神。私を慈しんでください。」というようにさせるために、神を畏れ、神に対して真実に生きることに努めなければなりません。私たちが「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし」て神を愛することが子どもを愛することになります。

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