同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞の理由を問う(13) —

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト記 20:6)

「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。」(申命記 11:18-19)

 自分の子どもたちが、救われ信仰の道を真っ直ぐに進んでいってくれたら、なんと嬉しいことでしょう。
ソロモンが王となったとき、家来たちがやってきて、ダビデに祝いのことばを述べたことが記されています。
祭司エブヤタルの子ヨナタンがアドニヤに知らせていることばです。
「ソロモンはすでに王の座に着きました。 そのうえ、王の家来たちが来て、『神が、ソロモンの名をあなたの名よりも輝かせ、その王座をあなたの王座よりもすぐれたものとされますように』と言って、私たちの君、ダビデ王に祝福のことばを述べました。すると王は寝台の上で礼拝をしました。」
(1列王記1:46-47)
父親に対して、息子があなたよりすぐれた人となるように願う、ということが祝いのことばです。繰り返し言いますが、それは父親にとってなんと嬉しいことでしょう。
 教会の剣道大会が話題になっていますが、昔、剣術の師匠について学んだ人が、師匠の満足のいく腕前になったら、免許皆伝としたことを伝え聞きます。中には、もう私はお前に教えることがなくなった、後は自分の修行で生きていけといって、自分のところから離れさせたという逸話も聞きます。こういったことは習い事の世界では、いずれにもあてはまるでしょう。
 信仰の世界は、神対私だけで、隣り人は関係ない、競争するものではないと信じる向きもありますし、それは真理の一端でしょう。しかし、一方で信仰は競争の世界であるのです。その競争において、どこまで、いつまで子どものライバルをつとめられるか、目を覚まして自分を訓練の場に置き続ける必要があります。それは、自分の子どもが神の前によりすぐれたものとなるためです。
 神の前にすぐれているとはどういう内容でしょうか。神を畏れること、神に従順であること、物事をどれだか神と同じように見ることができるかつまり神の価値観を持てるか、忍耐深く実行し続けられるか、どれだけ謙遜であるか、愛の人であるか、物事を処理する実行力や、技量というものもあるでしょう。人生を終わるとき、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(2テモテ4:7)といえるものでありたいものです。

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