同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(4) —

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト記 20:6)
「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。」(申命記 11:18-19)

 教会の中に神の恵みが実現するためになされなければならない重要なことが3つあります。それは説教と祈りとその実現のための適切な活動・行為です。そして、その中でもっとも理解されていないように見えるものは、説教の重さです。主の宣教のご命令は、「行って、説教せよ。」であることを思い出しましょう。
 「皆さん、私たちの子供、孫と千代までもキリストを信じる者となる信仰の継承がなされることは神のお約束です。それを信じ、祈り、子供たちに神を畏れ神を信じて生きることを教えましょう。」という説教なしに、教会の中で信者の子供たちが続々と救われるということがあるでしょうか?
 教会にはそれぞれの風土といえるものが存在しますが、その源となる最も重要なもののひとつに説教があります。罪の指摘と十字架の贖い、救いと新生の恵みが強調されると、信者の心はそれに集中します。牧師が、かつて自分が犯した罪を思い出し謝罪にいったことを説教に語ったら、信者たちが次々と自分の罪を思い出して謝罪してきたという事例を聞いています。伝道だ、と説教がなされると信者は伝道に熱心になり、海外宣教だ、と説教がなされると海外宣教のために教会が動く、そのようなことは知れ渡っています。
 ですから、日本のキリスト教界の沈滞理由のひとつに、信者の子供が救われる率が低いことが挙げられると述べましたが、その対応の最初の切り口は、「子供を救い、信仰を持たせ、自分の信仰を自分の子供に継承しよう。」という説教がなされることです。
 「信仰の継承」ということばはよく聞きますが、そのためにどれだけ説教がなされているでしょうか。その説教をなされることを阻害する重要問題として、自らの子供が救われていない場合や、集会に列席する信者たち特に役員・長老たちの子供が救われていない場合が挙げられるでしょう。子どもたちが救われないまま手の届かないところに行ってしまった信者たちを前にして、子どもを救いましょうという説教をすることは困難だからです。どこかでそれを打開しないとまた次の世代も子供を信者にできなくなるという悪循環を引き起こすことは目に見えています。
 どうすればよいのでしょうか。信者の方が先生に求めるべきです。「若い人々の子育てを支援し、子どもたちを救いに導けるよう教会を挙げて労しましょう。そう説教して下さい。」

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