同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞の理由を問う(7) —

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト記 20:6)
「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。」(申命記 11:18-19)

 「私の父の神」という神観について、私の信仰は父の信仰とは違うなあ、と言われる方もおられるでしょう。ここにいう「私の父の神」というのは、神は私の父が信じた神、私の父を救われた神であって、自分の信仰のルーツがそこにあることを認めることにあります。信仰を持つと本人が認識するや否やに関わらず、自分の「神学」を持つのです。神学と表現すると神観、人間観、救拯観、・・などと一般論に進んでしまいます。確かにそれらを含んではいますが、もっと単純で自分は何を求めるか、何を望むのか、なにが欲しいか・・すなわち価値観と、教会あるいはみずから開く聖書のことばとどれくらい、ひっかかること・・対峙すること・・がおき、それらに従って自らを律することができるかどうか、という自分にとって生々しい事柄がここで述べていることの中心です。それが子どもに分かり、また子どもが受け継ぐものとなるのです。私たちは父の神信じますし、そして自分のもつ神学は「親の神学」と似ているけれでども、顔形が違うように違っています。
 これまで述べましたことは、キリスト者の経験することを観察して得た結論ですが、この考えは聖書が教えていること、あるいは聖書の教えを適用して、それに適うことであるか聖書を見ておきたいと思います。
父の神という表現は、創世記のヤコブのところで出てきます。
ヤコブはカナンの父イサクのもとに帰ろうとして、妻たちに自分の置かれている状況を説明してることばのなかでこう表現しています。
「私の父の神は私とともにおられるのだ。」(創世記31:5)
ヤコブの伯父ラバンは夢に現れた神をこう表現します。
「昨夜、あなたがたの父の神が私に告げて、・・」(31:29)
また神ご自身がヤコブにこう言われました。
「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。」(46:3)
 ヤコブの子供たちにとっても神は父(ヤコブ)の神でした。(創世記50:7)
 エジプトの宰相であるヨセフにとって、神は父の神でそれはヨセフの家庭内に徹底されていました。ヨセフの家の管理者である人物がさらっと口にしたことばはこうでした。
「あなたがたの神、あなたがたの父の神が、・・」(創世記43:23)
 「父の神」という発想は子供に信仰をもってもらいたい人の注目すべきことです。

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