同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(3) —

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト記 20:6)
「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。」(申命記 11:18-19)

 筆者の個人的な感情や思い入れを述べることは論説に相応しいものではないのですが、ここに述べていることの真意を汲み取っていただくために、次のことをあえて述べておくことが必要でしょう。筆者の所属する教会は、以前は他の教団、教会とは全く没交渉であるといえる状態であって、周囲を顧みるということはありませんでした。時の経過と共に教会のあり方も姿を変え、他の教団、教会と共に活動する機会が増えました。同じ信仰に生きる人々を見て、喜びを感じるのですが、同時にそれぞれの教会の課題や、先生たち、信者さんたちの労苦をも、ほんの僅かに過ぎませんが、かいま見るのです。
 前回取り上げましたように、多くの祈りと労苦と財とを払って得た信者が、教会からいなくなったら、払った労苦がむだになります。パウロが言った「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(I コリント 15:58)というみことばを前に、涙がこぼれる思いがします。もちろん、教会を去った人々のためにも。個々のことには、それぞれ事情があって、とても取り上げることができません。ですから、「木を見て森を見ず」ということわざの逆に、「森を見て木を見ず」に徹して日本のキリスト教界の全体像をながめ、持っている課題を拾い上げ、対策を提案したいのです。これまでやってきたことを続けるなら、またこの先の時代も同じ状況が続くと考えるのは当然で、従来とは何か別のことをしなければならないのです。教会から信者がいなくなる、という現実を前にして、その理由は何か?対策は何か?と考えずにはいられません。
 このことを取り上げる前に、考えたいこととして、日本のキリスト教界の沈滞の原因の大切な一事項に、「信者の子どもの救われる率が低い」ということがあることを挙げたいと思います。冒頭に掲げたみことばの示している神のお約束は、子ども、孫、・・と千代までも信仰が継承されることです。それなのに、なぜ一代限りで終わってしまうのでしょう? 教会の外の人々を救ってくる前に、私たちが個人でも、教会を挙げても、まず必死に取り組まなければならない課題です。
 約束の地は神がそこを与えると約束されたものなのに戦い取るものでした。ヒントは「子どもたちに教えなさい」ですが、どうすれば教えることができるでしょうか?これも戦い取る課題です。

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