同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(16) —

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(2テモテ3:16-17)

 はじめに述べた、キリストが与えられた通りの福音を自分のものとしているだろうか?という問いに対して、私たちは真剣でなければなりません。そのために、残念な実例を紹介しています。私たちがそれを見聞きして、真剣になるためです。
 もうひとつご紹介しましょう。
 私の身近なある人は、東京神学大学を卒業して牧師になりました。彼がその大学に在学中、話をする機会がありました。彼は、自分が救われるという経験をしていませんでしたし、そういうものがあることも知りませんでした。それ以来一度も会っていませんので、後で救いの経験をさせて頂いたか私は知りません。しかし、そのとき彼は牧師の卵でした。これから福音の働き場に出て行って、人々にキリストを宣べ伝える役目を目指していたのです。商売に譬えるなら、<人を救う>ことがキリスト教を伝える人の商品です。これから商売に出かける人が、商品を持っていないのです。自分が持っていないものを他人に売る-与える-ことはできません。そのようなことがあったとしてもそれは、神が特別にお許ゆるしになったごくごく希なことです。
 私たちは、自分の子どもや親兄弟、親族をはじめ、知人たちを救いたいと思わないでしょうか。自分に与えられた恵みが分かれば分かるほど、その願いは強くなります。愛する隣人たちに福音を分かつためには、自分がそれを豊かに持っていなければなりません。ですから自分に与えられている救いをよく観察し、更に豊かに与えられることに対してどん欲でなければなりません。天国に入れて頂けさえすれば結構でございます、などと言いませんように。
 そのために聖書を素直に信じましょう。聖書には何が書いてあるでしょうか。
導いて下さるかたがたによって、聖書のことばの示している訓練を受け、「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者」とさせて頂きましょう。愛する隣人のために。

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