同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第88回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.3新約の王(つづき)

 福音のための働きはすべて、神の導かれる範囲でなされなければなりませんが、この働きは神と人との共同作業であることはいうまでもありません。ですから、人が自分の働きの範囲を狭くすると、その範囲でしか、神のために働くことができないのです。牧師は信徒全員が働きの対象の人々ですが、信徒は自分の家庭が対象です。信徒は特別な導き無しに隣の兄弟に口出しすべきではありません。牧師、時には信徒すべても、自分の働きの範囲を狭めないようにしなければなりません。牧師には信徒の「信仰に影響をあたえるものごと」すべてが取り扱う対象になります。これは信徒自身に委ねておいて、どうなるかみていこうとか、牧会上の工夫としていろいろあるでしょうが、原則はすべてが対象です。先に、信徒が職業につくときどのようにするか取り上げましたが、結婚の問題もまったく同様です。
 結婚は、就職以上に信徒の信仰生涯に影響を与えます。私も、結婚をどうしていくのかということを通して魂のお取り扱いを受けました。リベカの結婚について、ラバンとベトエルが「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。」(創世記24:50)と言ったように、この結婚は神のみこころによるものと確信してそこに進むことができたことを感謝しています。自分はもちろん完成した男ではありませんし、妻も完成した女となってきたわけではありません。ですから、結婚した後、夫婦の間の様々な問題に取り組む必要がありました。しかし、この結婚は間違っていたのではないかとか、この人はいやだというようなことは、決してありませんでした。これは神が導いてくださったものという確信は揺らぎませんでした。
 結婚後の様々な問題を、苦情として、牧師のところに言いに行く人々がいることを知っています。どんな人であっても、完成した人間になって結婚する人はおりません。結婚を通して、二人が一緒に生きる中で、霊的な成長に至るお取り扱いを受けるのです。そこには様々な軋轢があることが当然です。結婚する側も、導く先生方もそれを分かっていなければなりません。
 牧師は恐れずに信徒の結婚を取り扱うべきです。それは王の義務であり、同時に光栄ある特権です。信徒の家庭の建てあげられるの見ることがその報いです。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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