同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(14) —

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(2テモテ3:16-17)

 このテーマの書き出しに、皆さんが<神がお約束になった通りの福音経験をし、それに生きているだろうか>と問いました。それがすべての始まりです。主の訓練を受け、聖霊をいただいて世界に散っていった弟子たちの内に燃えていたものは絶えていません。
 ある人は恵みを豊かにいただき、解放された心で神の前を快活に生きますが、またある人は恵みを僅かだけいただいて、沈滞した心で生きます。日本のキリスト教界が沈滞ムードであるとすれば、平均的なキリスト者がその恵みを僅かいただいたにとどまっている人々だということにほかなりません。神は恵みを豊かにお与えになるのですから、それを受け取らないなんて「ああ、もったいない!」ということに尽きます。
 恵みを豊かにいただくために、考えさせられた一事があります。それは「聖書を本当に信じているのだろうか」ということです。
 聖書は神を「全能者」として示しています。私たちは使徒信条で、言い回しはいろいろですが、「私は天地の造り主、全能の父なる神を信じます。」と礼拝毎に告白しています。
「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」(創世記17:1)これが信仰の父、アブラハムの信じた神、ご自分でそう宣言された神です。
 神がご自分を全能であると宣言しておられるのに、聖書に通常起きないことすなわち「奇跡」に関する記事があると、自分はキリスト者であると告白しているにもかかわらず、それを、書いてある通りに信じない人々がいます。礼拝毎に「私は、全能の父なる神を信じます。」と告白しながら。
 神が聖書にお約束になっている恵みを、お与えになる前提は神を信じることです。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)神は私たちが信じている分量に応じて恵みをくださることは明らかです。
これらは、皆さんのよく知っているみことばでしょう。恵みをいただくと共に、戒めを実行しなければなりません。「義の訓練」を受けなければいけないのです。
声を大にしておすすめします。
「皆さん、聖書を書かれている通りに<全部>信じましょう。」

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