同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

隣人のために、神によって変えられる必要

石井 和幸

「イエスは三度ペテロに言われた・『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』ペテロは、イエスが三度『あなたはわたしを愛しますか。』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」(ヨハネ21:17)

 同労者先月号にて私は、「愛する隣人のために、神から与えられた目標、目的から逸れない、ブレない大切さ」を証しさせていただきました。今月は、私が3月に示されたことについて証しさせていただきます。それは『神から与えられた目標から逸れないために、自分自身が変わる必要があった』ということでした。
 我が家には4歳の娘と1歳の息子が居りますが、昨年の夏頃、私は家内の前で長男の謙悟について、不用意な発言をしてしまったことがありました。あくまで現時点での子どもたちの傾向性・気質を分析するつもりでその時は発言したのですが、私自身、「長男は自分と違う」という先入観と遺和感を言い訳に、長男との関わりが疎かになっていき、自分が大好きな長女の方に関わりが偏っていきました。
 私の家族構成は、妻と子どもの他に、両親と叔母、妹の合計8人です。長男が心許せる人格が多く存在し、私はもっぱら「叱り役」「嫌われ役」になっており、(長男が私のことを嫌がるのもしょうがない。ましてや長男は男の子、長女の時と行動、気質がまるで違うし、長女の時に用いた手法が全然通用しない。正直どうしたらいいかわからない・・・)という思いを抱き、自然と長女の方に逃げていく自分がありました。やがて、教会の先生方のご指導もあり、長男と2人だけでお風呂に入ったり、遊ぶ時間を設けたりしました。けれども長男は私のことを相手にせず、視線をそらして泣き続ける日々が続きました。
 そんな中、私のなかの根本的な動機、ベースとなるものが間違っているのかもしれないと思い、3月の聖書を学ぶ会にて、昨年の夏頃からの私の思いを、牧師の前で打ち明けました。「結局、息子が自分のことを嫌うなら、『今は別にいい、しょうがない、どうせ自分は憎まれるのだから』と思ってしまう自分がいます。」と。それに対し山本牧師はまず一言、「あなたが息子さんのことを愛せないのでしょう」と答えられました。先生の一言は自分の心にズシンと響き、(間違いなくそのとおりだ)と納得せざるを得ませんでした。さらに先生は、「『別にいい、しょうがない』と思う対象が、自分と関わりが薄い人か、やがて将来自分と関わりをもたない、遠くへいってしまう人ならまだしも、自分の子どもであるならば、今生じている息子さんとの距離感は、一生抱えていくことになります。(この人は厄介だ!)と思う人は自分たちの周りに沢山いるでしょう。けれども息子がそういう存在だとしたら、あなたはその思いをこれからもずっと持とうとするのですか?息子さんがあなたのことが嫌いなのは、あなたが息子さんを愛せないからなのではないでしょうか?あなたがまず息子さんを愛しなさい。」と答えてくださいました。
 集会にて牧師から頂いたアドバイスは、私の大きな転機となりました。(私は、主の御手のなかにおちいり、息子を愛することができるように変えられなければならない)と決意し、まず、長男に対する『厄介な思い』を捨てることにしました。そして、自分と似てようが、自分と違おうが、そのことは問題にせず、まっさらな状態で長男と向き合うことにし、現在も毎日、限られた時間ではありますが取り組んでおります。自分が親となってからも、私が長い間ここまで持ち続けてきた『高を括り、一つの結論を言い訳にしてしまう』『へりくだらずに、自分の考えで突っ走ってしまう』傾向性に浸かってしまい、『神から与えられた目標』が果たせるのか、早々に雲行きが怪しくなってしまう。そんな弱い自分の姿を見せられるときでありました。神から託された家庭を、自分の考えのみで推し進めるのではなく、神の前にへりくだり、神が示してくださる目標を取り下げないために、何をしなければならないかを見出して、取り組んでいく大切さを示されました。主なる神が具体的に配剤されることに感謝を覚えつつ、なおその導きに祈りつつ従う者でありたく願っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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