同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 復活の意義 —

「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと(です)。・・
もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(1コリント15:3-4、17-20)

 今年は3月31日(日)がイースターにあたります。これを機会に、いつものように主のご受難と復活について思い巡らすことができたら幸いです。
 引用しましたコリント人への手紙第一の15章において、パウロは死んだ人が復活することはないと主張する人々に対して、死者の復活はあるのだと、反論することを目的として書いたように見受けますが、そこからイエスが復活されたことの意義を読み取ることができます。
 天国、神の国、霊の世界が存在することの保証です。人間もその世界に入っていくのであって、イエスはその最初の人となられたということです。地上におられたときイエスは人間として歩まれましたが、復活の後は、父なる神の右に座しているお方です。
 イエスが私たちの罪の贖いとして死なれたことが実現する、すなわち私たちの罪が赦されることの保証です。この点をパウロは強調しています。もしキリストが復活されなかったなら「あなたがたは今もなお罪の中にいるのです。」と。

 私たちは、自分がどのように信じているか、考える必要があります。
 罪を赦していただいた、天国が約束された、ああよかった、これで安心だ。としてそこから前進しない信仰があるように思えます。それは<十字架どまりのキリスト教>と言ったらいいのでしょうか。赦していただくだけで、心の中も生活も赦される前と何も変わっていないということです。
 復活されたイエスが遣わされた聖霊と共に歩む信仰があります。これは<復活された主のキリスト教>と呼んだらいいでしょうか。
 聖書が伝えている神のご期待は、明らかに後者です。
「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」
(ヘブル6:1)

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