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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—25

 3月の聖書を学ぶ会、申命記32章が開かれ変わりなく一人一人の質問を通して集会が持たれましたことを感謝いたします。

 モーセは歌を歌って民の記憶に残し、カナンを目の前に家族は群れはどのようにして歩んで行かなければならないかを告げた。モーセという人物は民に仕えるのも、いやいやではなく真心からなしていた。イスラエルが神の前にどのように歩むか、それをしてはいけないこと、賢く自らのものとしなければならないことを徹底している。実際はそう願ってもならない現実がある、期待しながらいるが。本来は喜びがあり期待があり、神の命令に従っていくならばそれを得ることが出来るにもかかわらず、それを受け入れない実態。潔くその現実を認め変えられていかなければならない。神が人をどれほど愛し導いておられるかは、本気で生き本気で命をかけるものが知り得る。決して心地よいものではない。本当に人を愛することを通して、人は年齢を重ねながらどこにたどり着くか、生きている限り自分のものとしなければならない。モーセの最後の心残りは民をカナンに送り出すこと。人のために、隣人のために生きることができるかと語られました。

 今回の質問はA姉からで、コリント人への手紙第一1章21節「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」とあるように神を知るのは信仰以外にないということをわかっていますが、自分自身神はどういう方で、いろいろな事を通して何を教えられているんだろう、自分がきちんと知らない限り人に伝えることはできないのではないか、本当に神様をわかっていないんじゃないかと思ったりもします。どのようにこのことを考えて行ったらよいでしょうか。 先生は、もう一歩前に出て実地してはじめてわかってきたり、人格が見ていると思ったら意識したりと、いろいろ思い巡らしながら神は喜んでおられるとか、実際に行なっていかなければわからない。実践だから積まれていく、机上の空論では一向に変わらない。信仰を持ってものを動かしていくならば必ずことがなされていき結果がでる、頃合いが大切。背後に神がいる。ヨセフもエジプトでポティファルの家にいた時、ポティファルの妻の事で監獄に入れられたが本当だったら奴隷がそのようなことをしたら即、死刑になるところをポティファルはヨセフをどうしても助けようとして監獄に入れた。福音に携わっているとその人は必ず必要とされる。だから人に媚びない。若いころからそのことをなしていると40、50になってから大きなバックアップができる。投資できる人が儲かる、そういう感覚を自分のものにしていけるか。子供に何を学ばせるかも。投資がリターンになるか。正直に自分を分析し人と比べながら、へりくだってことをなしていくことが大切と語られました。

(茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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