同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第85回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.3新約の王(つづき)

 私たちが信仰に生きる<現場>として、家庭を取り上げましたが、その現場で信仰を表さないと、私たちの信仰は「絵に描いた餅」と呼ばれる通りのものとなります。理想を思い描くだけで、食べることができない、そのすばらしさを味わうことができないのです。
 先に述べましたが、牧師の現場は教会です。ひとつの家庭よりさらに複雑多岐にわたる課題がそこにあります。課題の一つ一つを判断し、王としてそれらに采配をふるう必要がでてきます。
「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」(ヤコブ2:14)
信仰は心に受け入れ、あるいはこころにそうだと思い描くだけでなく、それによって生活しなければならないものです。
王は自分がするだけでなく、家臣にさせる人です。もし家臣の生活が、キリスト者に相応しくなかったら、それを質し、改めさせなければならないのです。ここにいう「家臣」は神がそのひとにお任せになった人です。家庭では男の視点では、妻であったり子どもであったりするわけです。教会では、牧師の視点では、所属する教会員全部になります。
 生活のどんなところに信仰が顕れるでしょうか。
お金はどうでしょう。
「(監督は)金銭に無欲で、(なければいけません。)」(1テモテ3:3)
「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(1テモテ6:10)
教会員にけちで金銭を愛する人がいたらどうでしょう。神とその教会のためにあるいは貧しい隣人のために、お金を用いることができない人がいたらどうでしょう。どのようにしたら指導できるでしょう。そのような人はこころが閉じていて、説教が心に響かないことがありがちです。
十把一絡げの答えを書くことはできません。その<現場>において、答えを見いださなければならないのです。
重い荷かも知れませんが、そのために神の任命を受けたのです。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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