同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第79回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.2 新約の預言者(つづき)

 預言者の栄光と特権、それは聖書を読めば読むほどすばらしいものであることが分かってくるでしょう。預言者には神に代わって宣言をする特権が与えられています。
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ20:23)
 罪を赦すということは、キリスト教信仰の世界の大問題ですし、ユダヤ教でも大問題でした。イエスが自分の関わった人々に罪の赦しを宣言したとき、律法学者たちはただちにこう考えました。「この人は神を汚している」と。
「すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。」(マタイ 9:2-3)
「そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」」(ルカ 7:48-49)
「イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:10-11)
 私たちが誰かの罪を赦す、ということがあり得るでしょうか。
何の前提もなく、ただ洗礼を施せばその人は罪を赦されるなどと考えてはいけません。
 イエスはこのヨハネの福音書20章23節のことばの前に3つのことを語っておられます。
1)「平安があなたがたにあるように。」
2)「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
3)「聖霊を受けなさい。」
 1) の平安の問題は、最後の晩餐の席上で語られています。これはイエスが「わたしの平安」と呼んだものであって、説教の全体から、これはぶどうの木の幹であるイエスに枝として私たちがつながっているときにのみ存在するものであることがわかります。それは、預言者であるものの資質を決定図づけています。
 2) の派遣の問題は、その働きへの任命、使命を与えられていることです。誰かの罪を赦す、というそのひとつの現場で、神が私たちにそれを使命として与え、その役に任命しておられることです。
 3) の「聖霊を受けなさい」は、預言者が聖霊に満たされた神の人であり、聖霊の導きによってことに当たることを意味します。

 私たちは自分の子どもたちを救いたい、家族、親族を救いたい、親しい隣人、知人たちを救いたいと願います。それらは、この「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」という働きの延長線上にあります。
 その達成には、先に述べたように私たちが権威を与えられたからといって、何の前提もなく「罪を赦す」と宣言すればよいのではなく、その人の心に罪を自覚させる、すなわち認罪を与え、救いを求めさせ、罪を言い表してキリストを信じさせることが必要です。
 私たちが、「兄弟よ。さあ神に祈ろう。」といって祈りの中でその人をキリストに結びつけるとき、神が本当にそのひとを救い、罪を赦し、新生のいのちをお与えになる、これが私たちに与えられている特権です。もし、そのようにして、神が本当に働いてくださらなかったら、その人は救われるに至りません。けれども、イエスは私たちに聖霊を満たし、潔め、イエスのいのちに繋ぎ、平安を与え、預言者として派遣してくださるとき、約束を反故にされるお方ではありません。神は、エリヤ、エリシャの求めを実行なさったように、私たちの求めるところを実行してくださるのです。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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