同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

ここに福音がある

石井 和幸

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(コリントⅠ 1:18) 
「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ12:5)

 4月14日 私たちの教会の女声コーラストリオ「ミルフィーユ」の伝道コンサートが仙台市内のホールで開かれました。同労者88号(2007年2月)にてミルフィーユを初めて紹介した時は、小学生・中学生だったメンバーが、今は高校生・大学生となっています。「…ただユニゾンで歌って、『ぁぁ可愛かったわねぇ』で終わっていない。ハモリ、ハーモニーがあり、ちゃんとしたMC(語り)があり、しっかりしたバックバンド、そして最後の曲は大人のコーラスまでついていたこと。決して子供の賛美だと馬鹿にしないで、むしろ小さな魂のために、教会の人達が一生懸命バックアップしている姿に感動したとのことだった。(同労者88号より)」当時そう紹介した、ミルフィーユを支えるバックバンドの働き、教会の祈り、支援は今も変わることがありません。いや、むしろ多くの訓練と主の導きを経て、より用いられる主の器とされています。このコンサートでは、『ありのまま、福音に生きる姿』が証しされ、心からの讃美がなされた伝道会であったなと思いました。押しつけがましくなく、受け売りでもないイエス・キリストの福音がそこにあったと思います。
 4月21日、久しぶりに私たちの教会で、夜の伝道集会が開かれました。朝は教会学校、そして礼拝。午後は休む間もなく私用を済ませ、夕方から集会の準備。街頭での路傍伝道を終え、集会の席に座した時は正直、(ああ、疲れたなぁ・・・)という思いがありました。けれども、会衆讃美、司会者の証しとお勧めがその思いを振り払っていきました。プログラムが成される中に聖霊が働かれ、生きた福音が私の心を砕いていきます。(いくら会堂を建てても、いくら集会を設定しても、福音が語られなければ何の意味もないのだ・・・)と思わされました。集会がおわると、(今晩も集会に参加し、福音に憩うことが出来て良かった!)と主に感謝することが出来ます。家庭に帰って、集会の分かち合いを夫婦、家族で行うことができたことも、感謝でありました。
 今、1歳半になる長男は、私や長女が部屋で何かしていると、他の部屋からトコトコと歩いてきます。食卓では、自分も家族の会話のなかに加わろうと、いろいろなアクションをしたり、片言を話したりしています。家族が何かしていると、すぐそばで真似たりします。そして、ともに笑うことを望んでいます。そんな子どもに対して、ちゃんと愛をもって接することが、子どもに福音を伝える初歩であると示されています。自分自身、一日の仕事を終えて帰宅すると、体に疲れを覚えます。トラブルがあったり、物事の動きが慌ただしかった日は、(食事して風呂入って寝るだけにしたい・・・)と思うときもあります。けれども、いざ礼拝や伝道会が始まると讃美と証し、メッセージによって自らが整えられていくように、家庭においても、ちゃんとスイッチを切り替えて家族の前に役割を果たし、宗教性を確立していく・・・その営みを意識して行っていこうと思っています。
 子どもたちが自然と『真の福音』を見いだし、それに憩うことが出来、主なる神によって、整えられていくように、信じつつ、このことに励んでおります。子どもたちに『媚びる』ことなく、かといって無思慮に押し付けることでもなく、主なる神より受けた福音を、愛をもって伝えることに尚取り組み、「ここに福音がある!」と、新しい魂がイエス・キリストの十字架による救いと恵みに与ることが出来るように、祈り続けます。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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